2013年12月17日火曜日

お金貰うには見返りがあるよねえ

東京都知事「返した」と言い張るお金が話題になっているけど「徳洲会施設に補助金7億5000万円」とすっぱ抜かれたんじゃあ、何を言っても言い訳にしか聞こえない。

しかし、これ補助金が「7億」ではなくて、ちょうど貰った「5000万」がくっついているところは偶然なのか。

まあ、借りたか、貰ったかはどうでもいいけど、7億以上の助成金を貰った事実があるんじゃ何を出しても説得力がない。

「7億の助成金、返してもらいます」と宣言すれば話は違うだろうけど、そんなことは天地がひっくり返ったって起きやしない。

この「助成金」の話、あんまり記事にしているメディアがない。
多分、言論統制でも入っているんだろうかとかんぐってしまう。

かつての石原知事だって、自分の息子を「アーティスト」として雇っていた。
彼には、都からオリンピックの予算が与えられ、豪遊していたんだから、師匠の弟子は錬金術の手法には熟知しているのだろう。

でも、大手新聞は当たり障りない程度にしか書かないし、2ヶ月もすれば忘れられる。

みずほ銀行の反勢力への融資だって、他社もやっているという記事を撒くことで、国民に「安心感」を与えた。

偽装ニュースもそう。「他社と同じ」が一番みんな安心するんだから。

今回の事件だってそのうち忘れ去られるだろう。

それか、バッシングで辞めるのか。
みのもんんた氏も坂東栄治氏も言い訳したけどだめだった。

知事も日本人だ。

はたして「みんなと同じ」を重要視するだろうか。

300億円人材紹介会社にばら撒くの?!

信じられないニュースをやっている。

国が金をばら撒くのは地方省庁だけではない。
国は、なんと転職支援会社に助成金を与えるという。

つまり、企業が中高年の転職支援会社を使えば補助金を与えるという。

よく、考えて欲しい。

中高年が転職する場合は、年収は半分だ。

それでも、就職できればいい。

そもそも、日本の会社で再就職ができるのは30代まで。
派遣の仕事だって、40代、50代には紹介すらされない。

登録を薦められるのは、派遣会社の大きさを水増しするためだ。

転職支援会社も大した変わりはない。

私は「転職支援会社」に「退職した大企業」を通して登録しているが、1年半、一社とも面接したことない。

そもそも、会社を紹介もしてもらったことがない。
企業はリストラの言い訳に「充実した転職支援」をうたい、こういう会社を使う。

そして、それらを必要経費として落とす。
転職会社は対象者に何一つ紹介しなくても、企業にサービス費用を請求できる。

それだけでも十分搾取なのに、今度はこの転職会社に、税金から助成金を出すという。

ちなみに、これ今年の予算の150倍だ。
この予算、一人当たり上限40万までだそう。

給与半分で新しい職場に押し込めれば、人材紹介会社にはリストラした会社から、そして助成金が入っている。

こういう場合、何が起こるか?

まずは、人材登録だ。
また、派遣会社と同じ。
時間を3時間もかけて登録させるが、一切紹介はない。

そりゃあそうだ。
万が一、個人で就職できても助成金が出るんだから。

そんな中で、中高年求職者だけが何ももらえない。
助成金も、面接の機会も、職場も、仕事も・・・・

日本式コンプライアンス

キャリコネの「偽装請負」を訴えたらクビに 日立の内部告発窓口は機能しているのか」という記事、大手は全く記事にしない。

当然だ。
みんな「偽装請負」をやっているから、それを指摘したところで何も変わらない。

でないと、こんなにたくさんのサービス会社が成り立つわけがない。

このケースもそうだけど、元受は仕事をしない。
彼らは、名目上の「請負者」だ。
だから、発注主が「自分のプロジェクト」と思っている。

だから、発注者は「自分が雇った人材は自分が使う」のであり、何も変なところはない。

では「管理の元受」はどうか。

典型的な「お客様には逆らわない」という姿勢で対応する。

そんな元受はメンバーに「お客様が言っているんだから、そうして下さい。」としか繰り返さない。

そもそも、お金を貰う側が、お客様に「改善指示」なんてできる訳がない。
だから、お客様自ら「改善したい」と言うところだけを「改善する」ことで高いお金を貰う。

そして利益を取って下請けを使う。

だから、日本のシステムは変わらない。

この文化を指摘したところで、煙たがられるだけ。

で、これは「違法」だから当然、検査が入れば是正がかかる。

こんなことを各現場でやられれば会社としてはたまったものではない。

だから、そういう思想を持った人は追い出す。

当然だろう。

日本式のコンプライアンスとはそういうことだ。

法を「守ったふりをする」ことであり、法は世間へ向けた「建前」でしかない。

だって、そんな法を作るバックに居るのは大企業の団体なんだから。

2013年12月14日土曜日

決め付けるのは楽だけど

悪者を決め付けてそれを確定する。

これは、誰でもできること。

でも、その「悪者」が本当に悪いことをしたのかどうかを確定することはとても難しい。

なぜなら、本当にそれが「悪いこと」なのか、そしてその人が本当に「行動したのか」をはっきりさせなければ、事実の特定は無理な話だ。

読売新聞の「「警察呼び指紋採る」教諭の執拗聴取で精神疾患」の記事を読んでそう思った。

これは何も、教室の中だけはない。

悪いものを決め付けてそれを排除する。

どこでも行われているが、どのスタートは学校だ。

この件では5時間半も事情聞き取りをしたらしい。

この教員が行き過ぎたのはともかく、程度の違いはあっても、先生が特定の生徒を「悪者」と決め付けるのは日常的だ。

日ごとの態度から、そういうことが判るということもあるだろう。

でも、学校で必要なのは犯人探しではない。

「なぜ、彼(彼女)はそういうことをするのだろうか。」という「理由」をはっきりさせることだ。

それは、される側も含めてみんなで事象について「考えること」だ。

弱いものを苛めるのは、絶対的に苛める方が悪い。
傍観者も悪い。

でも、本当の問題は「なぜ、それが起こるのか。」をみんなで真剣に考え、当事者が議論しないことだ。

大人は、嫌い、好き、きもい、だけの子供の発言を肯定するのではなく、その先を彼らに考えさせるの役割だ。

大人が見せる「決め付ける」姿勢は、子供にそのような判断手法を教えている。

大人が変われなければ、未来は永遠と変わらない。

2013年12月9日月曜日

「コミュニティ」が意味すること

日本は震災以後「絆」とか「コミュニティ」という言葉が盛んに使われている。

ところが、こういうものを今まで大切にして来なかった人たちが使うので、誰が使っても薄っぺらいものにしか聞こえない。

使う人が「私って素敵っ」と思うための言葉にしか思えない。

今朝、CNNの「白血病の少年が「バットキッド」に」という記事を見て「ああ、これが大きく違うんだなあ」と思った。

このメイク・ア・ウイッシュという団体のことは以前から知っていた。

ただ、この記事は本当の意味での「コミュニティ」を現している。
1万2000人演じる「舞台」が「コミュニティ」として一体になった出来事は、たとえ影に醜い行為があったとしても、みんなが少年のために起こした行動は素晴らしいものだ。

人の良き「もの」は、人を動かす。
こういう一体感が「コミュニティ」という意識を育てるような気がする。

「5歳の病気と闘う姿が他者に勇気を与える」という記者のコメントは、与えた彼らと5歳の少年が対等であることを現している。

こんな風に「与える者、与えられる者」を作らない客観的な記事が書けるのは、アメリカ文化の根底にある平等意識のためだと思う。

東北の被害地域では、街づくりが難航しているらしい。

でも、コミュニティは、政府が作るのではない。
お金があるからできるものでもない。

そこに住む人達が「必要として」作られるものだ。
住む人一人一人が責任を持って作るものだ。

「誰か」が作ってくれるものではない。
「誰か」のために作るものでもない。

子供が、大人が、そして老人が、みんながお互いを支えあって作られるもの。
それがコミュニティだ。

それは、日本でもアメリカでも変わらない。

2013年12月8日日曜日

「幸せ」と「満足」の違い

最近のニュースに「日本人の満足度」は70%という統計結果を読んだ。
でも、日本人の自殺率はとても高い。

だから、疑問が沸いた。

「満足」と「幸せ」はそれぞれを求めた時、何が違うんだろうか。

定期的にゆく職場があり、収入があり、時々旅行に行く。趣味にもお金が使える。
こんな日々を過ごす人は「満足度70%」の一員なのだろう。

でも、それは「幸せ」なのだろうか。

東京を引き上げて、地方都市に引っ越した。
家はあるけど仕事がない。
「30歳以上」で女性の業務改善専門家など、誰も雇ってくれない。

でも履歴を隠したら、仕事が来た。

年収800万から、時給900円のテレフォンオペレータだ。

現状に満足は全くしていないが、心は東京に居た時より遥かに清清しい。
幸せとまでは言わないが、かなりそれに近いものがある。

体は正直で、体重が4キロ減って肥満気味が解消された。
食材が美味しいから、料理もうまい。

ジムも、教会も家から15分しかかからない。

未婚で中年へまっしぐら。
仕事は激安のアルバイト。
未来は真っ暗だけど、気が向いた時に、うまいものを友人と食べられるこの生活は、東京で感じた「満足」とは確実に違う「満足」だ。

4ヶ月に一度しか会わないけど、3週間前に夕食を計画しても、仕事を言い訳にして遅刻する友人との食事に、自分は本当に「満足」していたのだろうか。

「急だけど、今晩うちにご飯食べにこない?」と友人から誘われる今の生活を経験すると、過去の自分自身が感じていた「感覚」を疑わざる得ない。

私は本当にあの生活に「満足」していたのか。

人は「今」の生活「以外」の生活を経験して初めて「満足」と「幸せ」の違いを理解できるのかもしれない。