2013年8月29日木曜日

受託業務派遣

現在、日本で行われている派遣業務を指す。

ほとんどの派遣求人がこれ。
だから、とても沢山求人があるように見える。

「偽装派遣」と同じ意味なのかもしれないが、このブログではあえてこちらを使う。

かつて「派遣社員」は、人材派遣業者がスキルを持った人達を企業に送り、効率的に仕事こなす社員だった。

だから、「XX派遣からきた○○です。」と言っていた。

今の日本は大手であっても、こんな「派遣の求人」は皆無だ。
企業もそういう人材を求めていない。

何故なら今の時代、派遣は使い捨てだから。


<受託業務派遣が発生する社会背景>
大企業の物が売れなくなった。
でも、儲けるために売る仕組みを考える。

ケーブルテレビで娯楽をサービスにして売る。
その番組の4割を占めるテレビショッピング。
そこでは「持つことがどれだけ素敵なことか」を宣伝して商品を売る。
携帯で無料ゲームというお手軽な入り口を提供し、娯楽を売る。

彼らは消費者が簡単に商品が手に入るよう、お金を使わせる仕組みを考える。
広告に乗せられやすい人を刺激して、よりたくさん、より長くサービスを使わせる仕組みを考える。

だから販促活動やアフターサービス、販売後の回収業務は重要だ。

でも、大手企業はやりたくない。
彼らに必要なのは「売った」事実だけだ。
何故ならそれが儲けになるから。
返品や変更、クレームは「損失」だから考えたくない。

だから、これらを実施する子会社を作る。
一般的に「コールセンター」と呼ばれ、顧客管理をしている。

そういうことになっている。

<受託業務が発生する仕組み>
事実は違う。

子会社Aは面度な仕事を「プロジェクト」として下請けに出す。
下請け会社B、C、E、F、G・・・・がそれぞれ受託する。

下請け会社Bは、派遣会社 BA,BB,BC,BD・・・に募集をかける。
で、派遣会社BBに登録して、この「プロジェクト」に派遣されると、子会社Aの社員と名乗って仕事をさせられる。
つまり、下請け会社に「派遣」されるが、仕事は子会社Aの社員としてA社のアフターサービスをすることになる。

下請け企業が受けた「受託業務」に派遣されている形にはなっているが、派遣というのに「研修」が必須になっていたりする。

システム開発も同じだ。

大手企業がシステム開発を受注する。
それを小分けしてプロジェクト化し、複数の下請けが受注する。
その下請けが、他社に一部委託する。
「派遣」がその委託プロジェクトに参加。
作業場所は「下請け」の現場だ。

そんな会社は、社内に社員が誰もいない。
みんな、下請け会社の現場で仕事をする。
会社に社員がいないことを問うと「会社でやると情報漏えいの問題があるから」と言われる。

かつて建設業界が「孫受け、ひ孫受け」で弱小建築会社が沢山発生した。
「日雇い」を使って請け負った仕事をこなした。

業界は変わったが、仕組みは同じだ。
この業界では「派遣」と呼ばれる。

この「受託業務派遣」は、6年ほど前から大手派遣会社M社やP社の派遣でやり始めていた。

派遣社員には詳しく言わずに「お顔合わせ」に連れて行かれて、初めて解って驚いたことがある。

今や、誰もが嘘をついて人を騙しても「それは、業務です。」と言い訳できる仕組みが出来上がっている。



スマートフォン中毒だけじゃあない

中毒を「依存症」と言い換えて「病気」としても、問題の深刻さは変わらない。

この根本的な原因は、単純に自身の「欲望をコントロールできない」ことだ。

子供はそのコントロールが出来ないから、大人が制限する必要がある。
ただ、中学生でも、大人でも、現象は変わらない。

まず自分が「病気」だと認めることから、治療は始まる。
しかし、それを「病気だから」と言い訳しても何も変わらない。

問題は「自分自身」にあり、それに向き合わないことは、治療を阻むことになる。

そもそも、何故依存するのか。
何故、それを「止める」力が自分は無かったのか。

大抵の場合、自分の「欲望」が満たされていない不満、もしくは、苦しいことからの逃避だ。

つまり、満足を得て、苦しいことが起きなければ、依存は起きない。

「権威者」は反論するだろう。
「そんな単純な話ではない」と。

でも、事実はシンプルだ。
逃避はともかく、欲望には限界がない。

だから「もっと」ということになり、決して満足には至らない。

事実、医者は患者が「病気」である間、薬を売って儲けるが、患者は金を失う。

もちろん、金だけではない。

健康や仕事や希望もだ。

だから聖書は、人の欲望がどれだけ「罪」であり、危険な「悪」なのかを繰り返し語る。

人は、欲望のままに生きることで、神が与えた自分自身さえ壊してしまう。

だから、神は人に聖書を与えた。

だから、神はイエスを送られた。

そんな罪人であっても神は人を愛している。

この事実を伝えるために。

何故なら、人は神の創造物だから。

「死亡消費税」とはうまい考え方だ

戦後、とんてもない金額の債務に苦しんだ日本は、借金をチャラにする訳には行かなかった。

だから、財産税を課して、預金封鎖、その上新円の切り替えというなりふり構わずのがめつい収税を実施した。

国の政治家が起こした戦争だったのに「戦争はみんな苦しんだのだから」という共同の罪悪感を植えつけて対応した。

中流クラスは日本の貯金箱」というブログにも書いたけど、国が取りやすいところから税金を取るのはいつの時代も同じ。

税の名称と、取り上げる組織は違うかもしれないけど。

だから「死亡消費税」という話を聞いた時「うまい考え方だなあ」と思った。

たしかに、死んだ人から取れば問題ない。
子孫がいる人には大変だけど、どうがんばったって、借金は減らせないのだから。

この税金に怒る人たちもまた、日本の政府と同じだ。
だって貰える「親の遺産」に期待しているのだから。
だから、自分の分け前が減ることに我慢ならないのだろう。

今まで、苦労して世話したのに。

そう。これは、年金、医療と払い続けた国の言い分と同じだ。

でも、これで文句を言っても今の相続税の法律を変えれば、結局取り上げられる。
どういう名目で、国に取り上げられるかの問題だ。

だから、財産は「使う」方がいい。

ビジネスを始めて、周りの人を助けて、街を助ける赤字ビジネスを親から相続する。
そうすれば、財産と借金が相殺されて「財産」は残らない。
だから、死亡消費税はほとんど納めなくていい。
でも、親から譲り受けたビジネスの技術、信用、販路、は残る。

財産を残しても、国が取り上げると決めたらそれまで。
歴史を振り返れば、それが事実だ。

年金、医療、死ぬまで国に頼ったんだから仕方ないだろう。

2013年8月27日火曜日

「見ない振り」の先にあるもの

最近、ある有名歌手のライブに行った。

素晴らしい声の持ち主である彼女の体は、昔から大柄だった。
しかし、今回は巨大だった。

声は素晴らしいけれど、健康状態はとても悪い。
今後、彼女の素晴らしいライブを後何度見ることができるのだろうか。

人類が始まってから今のような肥満が蔓延した時代はかつて無かった。

人間の体は、肥満になったからと言って、耐震工事のように強度を追加できるものではない。

だから、関節が体重に耐えられなくなったとき、問題が起こる。
しかし「肥満」という問題の発生前から「不摂生」という原因があった。

ただ、自分の問題を「見ない振り」をした。

聖書が人間の欲望を「悪」と考えるには理由がある。
何故なら、人は決して満足しないからだ。

現代において、欲しいものは簡単に手に入る。
美味しいケーキも、コンビニで夜中に買うことができる。
そして、人の欲望を満足させて儲けるために24時間店が開いている。

そして、欲望を満足させた後、人は罪悪感を隠すために言い訳をする。

「今回だけだから」と。

これは、反省ではない。
反省は自分の言動を見つめ、それを「変える」ために行う行為だから。

欲望のままに食べて、アルコールを摂取して、運動もしない。
自分自身の「問題」に向き合わずに20年。

50代になってからあせっても、決して手遅れではないけれど、痛めつけた肉体を復活させるには、かなりの時間がかかる。

病気になるには、原因がある。
その原因に向き合うということは、自分の欲望に向き合うことだ。

つらいことかも知れない。

でも、培った素晴らしい才能は神がくれたもの。
それを生かすために、自身の欲望に向き合い、それを制御するのは自分しかいない。

「旅」は予定通りに観光地を訪れること

彼の意見には、多いに賛成だけど、旅でハプニングを「楽しめる」ような人はそもそも、団体旅行になど参加しない。

今の時代「旅行に行ってきた」と誰かが話すと、大抵「団体旅行に参加した」がほとんどだ。
自分でチケットとってどこか行く方が珍しい。

団体旅行に参加する理由は「安い」が一番だけど、それより「楽ちん」が一番の理由だ。

飛行機の窓口での手続きなどは、みんな「誰か」がやってくれる。
年金、誰かに運用任せて、貰うだけ、という考え方と同じ。

だから、お客のニーズは「自分でやりたくないけど、もう少しゆっくりしたい、少人数で」という高額の「団体旅行」が増えてきている。

重要なのは同じメンタリティで「手続きみたいな面倒なのはやりたくないけど、ゆっくり楽しみたい」というニーズがあるということ。

お金に困っていないシルバー世代、つまりリピートが期待できる客層だから、そういう商品も売り始めている。

彼らはもっと「払った金」に対して敏感だ。
クレーム対策も「5000円バスツアー」とは違う。

だから添乗員は、言葉遣いや振る舞いに十分「失礼」の無いように、そして、期待通りに行程が進むように、配慮する。

そういう観光業界の実状を踏まえると、彼の考える「旅」の意味がそもそも、現代の一般的日本語の意味とは解釈が違う。

私は彼の意味で「旅」を考えるから、団体旅行より、個人を好む。

何故なら、そういう旅行ほど思い出の方が強烈に残っているし、「もう一度その土地に行きたい」と思わされる体験が多いからだ。


「お客様」の期待と欲望は、契約以上に膨れている

面白い記事があった。

東洋経済オンライン
「お客様は神様」は本当に正しいのか?

彼の視点で一番面白いのが「1万円払って、1万円戻ってリピートがあるか」という疑問だった。

この観点は、バスツアーの「運営側」から見ているのだが、彼は「お客様を理解していないなあ」と思った。

「1万円払って、1.5万円くらいの価値を得るからリピートする」のが、今の観光業界だ。

そもそも、売値がまともじゃない。
バスツアーなんて、5000円位から1日遊んで、交通費まで含まれる。

だから、30人以上のツアーでないと利益が出ない。
だから、「添乗員」という特殊な職業が成り立つ。

かつて海外旅行で有名だった「団体様ご一行」は、今や国内旅行でも主流だ。

だから、ツアー中に仲良くなる人もほとんどいないし、お客様は団体行動のパーツの一員でしかない。

そこで、彼の疑問は、このように考えることは「お互いのためにならない」と意見しているが、それも違う。

お客様にとって重要なのはテレビでみた「あそこに行った」ことである。

このようなことを目的にする旅にハプニングは要らない。

パンフレットの「契約どおり」のものが得るのはもちろん、それ以上を期待する。
だって、金払ったんだから。
ハプニングがなく、予定通りに進むためにも「行程管理主任」をつけているしね。

お役所的発想に掛かる費用

定期的に無農薬野菜を送ってもらっている。
先日、旧郵政省の配送会社のサービスに嫌気がさしたので、配送会社を変えてもらった。

夕方、旧郵政省の会社の人間が「2人」も訪問し、再配達の荷物と「申請」書類を持ってきた。

荷物だけ受け取って、書類を貰って、お引取り願った。

ちなみに、この「申請書」の文章がいかにもお役所的だった。
簡単に言うと「もし配達した商品が腐っていても、玄関先に置いた私達のせいではありません。」という責任追及しない確約のための申請書だった。

さすが、大企業だ。

事故が起こった時「責任から逃げる」だけではなく、「責任回避の仕組み」もしっかり作っている。

でも、考えてみて欲しい。

この場合、旧郵政省の会社で発生する業務の量は膨大になる。

こんな手間をかけて捺印までされた「個人情報」の管理、それをドライバーに伝える作業、毎回配達時に確認する作業。

最低でも、これだけ彼らが「毎回きちんと業務して」初めてユーザー側は要望が満足される。

つまり、こういう申請書を書いても、求めるサービスはされない可能性が高いということだ。

そして、ここに掛かる人件費や管理費。
うち、1件ではない。

二人来たことも考えると、人件費の過大さは明快だ。
そして、彼らのどちらかは正社員だ。

ドライバーさんが一人できちんと責任を負って仕事をする他社の2倍以上かかるだろう。

ユーザーは、もっとシンプルに考えた方がいい。

企業がそのサービスを使わなければ問題が起きないのだから。

お役所的発想は変わらない

某無農薬野菜を定期的に送ってもらっている。
猫のマークの宅配会社だ。

毎週水曜日に届けられるのだが、私はその日出かけていることが多い。
そこで荷物を「置いておいて」とドライバーさんにお願いしている。
卵も入っているのだが、土地柄それほど暑くならないし、2時間後には自宅に戻る。
家は集合住宅なので、外からは見えない階段室の内側に玄関がある。

ドライバーさんが変わっても、きちんと引き継がれて、2年以上全く問題はなかった。

でもある時、長期停止をした後、宅配を再開したら、旧郵政省の会社に変わった。

一度目、不在票が入っていた。
だから、荷物を置いてもらって構わない旨説明した。

「わかりました」と言った。

確かに言った。

2回目、3回目。同じことが起こった。
頭に来て、電話した。

そうすると「申請書」を書かないと「受け取り確認ができないような配達はいたしかねます。」だって。

続けて「再配達の荷物といっしょにそれを持ってゆきますので、印鑑を押して下さい。」と言われた。

その説明を聴いて「判りました。」と伝えた。

直後に、無農野菜を送ってくれる会社に電話して「配送会社を変えろ」と指示した。

彼らは価格を競争させるために、何社か配送会社を使っているはずだ。
だから、変えろ、と指示しても全く問題が起きないことを知っていた。

なんたって、こっちは客だし、彼らも何年も買い続けている顧客を失いたくないはずだ。

私の問題は解決した。

2013年8月26日月曜日

大企業寄りの新聞が、ようやく重い腰を上げた

大企業から広告をもらう新聞社が「大企業の実態を暴く」なんて、ほとんどない。

しかし、さすがに「正義の味方」を気取る新聞社もようやく記事にした。

再就職支援、実は人切り 「受け入れさせるための飾り」

もちろん、新聞社は「かわいそうな労働者」という切り口で記事を作っている。

でも、「何を今更」という感じだ。

このブログでも、人材紹介会社の仕組みについて書いている。

そもそも、日本での就職で必要なのは、キャリアではない。
年齢だ。

50代など、履歴書の年齢以下は、目も通されない。
彼らは、50代と判った段階で、その人のキャリアすら知ろうとしない。

加えて、人材紹介会社も、大企業の子会社だ。

仕事に結果など求められない。
だから、やっている「ふり」だけする。
そうすれば、親会社からの「売り上げ」が成り立つのだから、努力している「演技」はする。

私は、すっかり、その演技に騙された。

この記事「紹介会社で駄目なら、派遣しかない」なんて、50代の人の悲壮なコメントが書かれている。

彼は、この記事の後も、求職活動をすると思うが、人材派遣はもっとひどい。
一連の体験で発見した実態は、ここでも書いているが、IT化されているゆえ、人間扱いなどされない。

大体、30代以外なんて、登録だけさせるだけで、紹介なんてする気は全くないのだから。

だから「今さら」でも、この手の記事を大企業の新聞社が書くということは、彼らもまた、読者が減っているのだろう。

日本中のリストラに怯える団塊世代を一時的にでも読者にすれば売り上げは上がる。

考えてみて欲しい。

この仕組みで儲かるのは、大企業だけであること。

2013年8月24日土曜日

既存の「仕組み」を壊す仕組み

グーグル卒業生、“全自動会計”で席巻
http://toyokeizai.net/articles/-/13559

クラウドだ、なんだと、大手が売り出すものより、はるかに性能がいいものなんだろう。

この会社のサービスが普及して、自営業が増えれば、日本の価値観も変わるかもしれない。

自営業でみんなが嫌がるのが会計事務だ。

まず、何をすべきか判らない。
だから、自営業をやる敷居がとても高くなる。

そこに目をつけて、クラウドとか会計ソフト会社がいろいろオンラインサービスを売り出している。
しかし、所詮「パッケージソフトのオンライン化」であるから、判りにくいし使いにくい。

中小企業には、機能が有りすぎなのだ。

これは是非、使ってみたい。
月額980円で帳簿がつけられるなら個人事業主には、救いの神みたいなもの。

会計作業は、別に人を雇って年間200万もかける必要などない。
仕組みさえできれば、会計処理など、日本全国、いや世界ほとんど同じだ。

事実、大企業は、会計ソフトを「グローバル一本」にして、効率化を図っている。
彼らが削減した経費は膨大だが、それ以上に決算集計の早さが、トップの意思決定にどれだけ役にたっていることか。

中小企業は高い値段を払って会計事務所に作業を依頼しているけど、これからは変わる。
業務処理は、仕組みさえ出来てしまえば、誰でもできることなのだ。

こういうサービスを使うことが普及すると、いろいろなところで変化が起こるはずだ。

後は、法律的に槍玉に上げられないことを願うだけ。

確信の無いことに挑戦する怖さ

ビジネスはどんなものでもリスクはある。

ただ、ある程度期待ができることもある。最近、とある家電が物凄いヒットしている。

製造元も驚くほどの人気だ。

テレビで、ブログで紹介されて火がついたらしいが、大体一万円以下の商品だ。

この商品を知ったのは、まだ、アイスクリームなど欲しくもならない頃の1月だった。
欲しいと思ったけど、買わなかった。
すでに自宅にはフードプロセッサもハンディプロセッサもある。

冷たいアイスクリームのように凍らせた果物を加工できる道具はいくつかある。
そして、一年に何度使うだろうか。

それを考えると購入は控えた。

でも、この時、大量に仕入れていた人は今、大もうけしているだろう。

消費者の動きがわかれば、ある程度のビジネスで儲けることができる。
ただ、その先だ。

ビジネスは継続がたいへんだ。
流行にのって儲けてもその先がない。

サービスでも商品でも、結局は「この店で買う」というファンを増やさなければ、リピーターになってくれない。

だから、何か、新しいことをやろうとするのは怖い。

理解してくれるだろうか、失敗したらどうしよう。

でも、やってみないと判らない。話してみないと理解されない。

サラリーマンになることは大企業の仕組みを支えること。

価値観を変えて、何か自分でやってみることを「選択肢」に入れてみてはどうだろうか。

大企業が欲しい労働力

需要と供給の理論は、どんな世界でも成り立つ。

必要のないものは淘汰されてゆく。
しかし、労働環境においてだけのみ「既得権」が幅を利かせる。
そして日本の「仕組み」もまた、それを後押しする。

今、日本の教育が問題だというけれど、大企業で欲しいのは、個性的な人間ではなく、均一な労働力だった。
だから、政府と大企業は手を結び、そういう人材をつくり、洗脳した。

「いい大学にいって、大企業に入れば、安心だ」という価値観だ。

だから、均一な労働力(人)は、何も疑問を持たなかった。
アジアでの戦争が、日本の高度成長をもたらし、みんなが潤った。

でも、消費が止まり、物が売れなくなった。
経済発展が止まっても、消費の価値観は変わらない。
だから、借金をする。

今になって企業は成長のためには、今までと違うものが必要だと言う。
「グローバル人材が必要だ。個性的なアイディアが必要だ」ともっともらしく主張する。

でも、そういう意見を持つ人材を「リスクを考えないやつ」と評価し、「大組織」から叩き出した過去はすっかり忘れている。

だから、そういう人は海外に出る。

人材流失と騒ぐけど、「大組織」の中に「需要」が無いのだから仕方ない。
変われない企業が、どんなに新しいものを手に入れても何も変わらない。

稀に新しい価値観を持った人材が入ることがある。
でも、「既得権」の中でゆるく生きる楽チンさになれてしまうから、結局何も変わらない。

色の絵の具の中に、少しくらいの黄色を入れても、黄色は黒くなるだけだ。

大企業の「再就職支援」のまやかし

大企業がリストラをするとき、「再就職支援」という名の「人材紹介会社への登録」がある。

これは、完全なまやかしだ。

面白いことに、大企業がリストラする時には、その経費が「特別損失」で処理される。

つまり、企業では自分の部署で予算は結構取れるということ。

大企業は、専門の子会社を作り「人材紹介」という仕事を放り投げる。
調べてみればすぐ判る。
日本の大抵の大企業は、参加に人材派遣、紹介会社を持っているから。

で、彼らに親会社の嫌な仕事をしてもらえば、売り上げが増える。
社員の出向先も確保できる。

そして、グループ会社の売上増になる。

退職を迫られる労働者は、そんなからくりがあるなんて、なーんにも知らない。
「こんな支援があるんだから」となだめられて職する。

でも、考えて欲しい。

大企業が「いらない」という人が、そもそも社内で重要なポジションについていたか?

そんなことは、絶対ない。

では、その人が人材紹介会社において「何」を売りにするのか?
過去の栄光?
つまり、全く売りが無いということだ。

その上、40代、50代、なら、そもそも求人すらほとんどない。

人材紹介会社もそんなことは知っているから、彼らと話す時は、がんばっている振りだけはする。
熱心に話して知り合いになろうとする。

でも、面接に行けるか?

まさか?!

だって、企業は若い子しか求めてないのだから。

そうやって時間が立てば「やっているふり」もしなくなる。

その頃、失業手当を貰い終わる。
そして、ようやく企業のからくりに気がつく。


騙す対象者の選び方

おれおれ詐欺の手法が複雑化して、騙される人が増えている。

「騙されないように」とどれだけ啓発してもやっぱり騙される。

騙した人は絶対的な「悪」だが、電話をかけるべき対象者を絞らなくては、成功率が低いだろう。

では、どうやってその対象者を絞るのだろうか。

多分、こういう人達は、そうやって騙される前にも、知らない人から来た電話や訪問販売、テレビショッピングそして商品を購入しているはずだ。

そういう人は、騙されやすい。

これは、ある老人の話だが、彼女は電話販売で何度か商品を買った。
高いと思っても一万円以下だったから、商品は返さなかった。
面倒くさいからだ。
小金持ちだけが出来ることだ。

そうすると、だんだん高額商品や証券などの売り込みが増えた。

その人の娘が、3回目の商品をクーリングオフをさせた。
4回目に排水工事詐欺もクーリングオフさせた。

そうすると、その後1年、目に見えて売り込み電話が減ってきた。

だから、個人情報保護法と言っても大した意味はない。
名簿は昔から売買されてきた。
今は、その桁数と対象分類が変わってきただけだ。

ほとんど無料で人を騙して何百万も得られるのだから詐欺師は騙すことを止めない。

騙される前の「今」、自分がすでに「騙されていない」か振りかえってみよう。

自分の過去に何を買ったか。
貴方が「自分が知っている店」以外から買った事実があれば、きっとそのリストに入っている。

掃除機、布団、浄水器。
何故、お店に行かないで購入したのか、考えてみて欲しい。

違法、合法の問題ではない。

ハンターが鹿を見つけて狙うように「権威を妄信する」貴方はすでに彼らに見つけられていることを自覚する必要がある。

自分の期待通りにはならない現実に向き合う

「女性が子供を産まない」理由を「社会のサポートが少なすぎるから」という記事は、男性的思考の切り口だと思う。

しかし、この記事のように、どんな問題でも、いつも「誰か」もしくは「何処か」に責任を被せて「それが問題だ」と訴えることは、どうなんだろう。

国であれ、企業であれ「誰かに何かを頼る」ことが当たり前になっている。
この思想が蔓延すると逆説的に「誰かしてもらうこと」が当たり前になる価値観も生まれる。

専業主婦願望はその典型的なものだろう。

企業勤めることだけが社会に関わることだとは思わない。
しかし、最初から経済的安定を「誰か」に期待するのは、人間としてどうなんだろうか。

魅力的な日本人男性は絶滅寸前であるということは、自分のことには熱心で、他者へは無関心、ご都合主義で、責任感がなく、うそをつくことを悪いとも思わず、バレると相手のせいにするような男性がほとんどだということだ。

そして、彼らが今の社会的価値観を作った。
当然、女性の価値観も影響される。

だから、女性もまた誰かに経済的安定を求めている自分を「自分の中」に見つけた時、自分自身もまた社会問題を構成している「当事者の一部」であることを認識する必要がある。

「国が、企業がああしてくれない」と自分以外の「誰か」に期待しても自身の安定は得られない。

それは、貴方の欲しいものであって、彼らが欲しくないのだから。

欲しいものは、自分で手に入れるしかない。
自分を変えて。
自分の生活を変えて。

自分の人生は「自分で」選ぶしかない。

そもそも、そんな気にさせる男は何処に居る?

某大手新聞社の記事に「子供が生めないのは社会のせい」という切り口の記事があった。

これは男性的思考だ。

私は「女が子供を産まない」本音の理由は「情けない日本人男性の子供を地球上に残す価値はない。」と知っているからだと思う。

ざっと、あたりの適齢年齢の男性を眺めて欲しい。
抱かれたいと思わせるほど、尊敬できて、リーダーシップのある人がいるだろうか。

女性を人として、尊重し、信頼するに値するような男性がどれほど存在するのか。

勤める会社の自慢しかできず、給与とゴルフのスコアは高いほうがいいと思っていることを、合コンで平気に口にするような男のDNAを次の世代に残したいと思うだろうか。

自炊もせず、毎晩晩酌するような男性と子供を育てることを期待する女性がいるだろうか。

時代や法律がどれほど変わろうと男の意識は変わらない。

結婚しても一緒に生活する意味すら知らない男性のDNAは、地球上に必要ない。

単純な話だ。
でも、男性社会でそんなことは口が裂けたって言えない。
だから、社会が悪いということにしておく。
だって、それもまた事実だから。

かつて、男性は「弱いもの助ける」強い存在だった。
肉体的だけではなく、精神的にも「力を持つ者の義務」を意識して「恥」を知り、「義」を重んじる男性が多かった。

でも、そんな男性は絶滅危惧種だ。
だから、そのうち絶滅する。

女の選択は社会に対する「ストライキ」だ。

子供が作れないのは「社会」のせいか?

某大手新聞会社が選ぶ記事は「正義の味方」風な味付けが濃くて、時々げんなりする。

「女が子供を生めないのは、社会のせい」という切り口で書かれているある記事は、最初から「なぜ生めないか」というトピックだ。

サラリーマン女性の苦労や、男尊女卑の考え方は理解できる。
でも、「子供」を生むか生まないかを決めるのは女性だ。

残念ながら、男は協力者でしかない。

旦那の稼ぎが悪いというなら、地方の親元に帰ればいい。
仕事が無くなっても、みんなで助け合えば、それなりに子供だって育ててゆける。
仕事に復帰できなくても、生活保護だってある。

職場も生活も変えずに子供が育てられないのは「それを支えない社会が悪い」と言う意見は理解できる。
しかし、これは「女の我侭」だろう。

自分の「今」を変えたくないなら、生まなければいい。

子供を育てるというのは、命を、未来を作ることだ。
保育所に預けることではない。
価値観を与え、将来を支える人間を作るということだ。

昔みたいに、日本のために「子供を生む」必要なんてない。

政府が少子化を問題にするのは、それが彼らの仕事だからだ。
それを問題にしなければ、彼らの仕事も部門も存在意味がなくなる。

だから、自分が「この男の子を育てたい」と思えば、生めばいい。
神もそれを祝福するだろう。

人間が「作る」のではなく、この世に必要とされる命なら、何時だって生まれるのだ。

そして、その命をいとおしむ家族もできる。
助けを求めれば。

別に今の職場でなくても、人生は続くのだから。

儀式が無くなる「死」が増える社会の価値観

最近、TEDという番組である医者の言葉に考えさせられた。

彼は、医者が患者に「触らなくなった」ことを問題視していた。
そして、聴診器で音を聞いて、触診をすることが「医者と患者の信頼関係を作る儀式だ」と語っていた。

かつて、社会文化上、儀式は「変化」を認識するのに必要なことだった。
結婚式、お葬式。つまり今までの生活が「変化する」ことを自他共に認める行動であり、重要な役割を持っていた。

しかし、今、結婚式も葬式も「しない」人が多くなった。
この事実は、当事者達が、それらによって、生活が変化しないことを期待しているように思える。

離婚が増えたのも、決して関係が無いとは言い切れないだろう。

結婚式をせずに妻との生活に入り、自分の生活リズムを変えたくない夫。
親が死んでも遺体と住んで年金をもらう家族。
「変化」を嫌うあまり彼らが取る行動は、周りの人間を困惑させる。

人生は、変化の連続だ。

仕事が無くなっても、何とかなる。
二人で助け合えば。家族で助け合えば。分け合えば。
信頼し合えば。

だから、愛する人を失った時は、儀式が必要だ。
その「変化」を自他共に認知するためにも。

儀式が必要というのではなく、儀式が持つ「意味」が重要なのだ。

形式だけを重んじた社会は、家族もまた形式だけになった。
虐待や離婚も形式だけを重んじた社会の歪みだ。

だから、人と関わる時は「覚悟」を持とう。

縁があったのだから。一人ひとりが選んだ「変化」なのだから。

能力や権力を持つ責任者の「義務」

頭を下げることを「責任」と思っている日本のリーダーが多い中、緒方貞子さんの「決断力」に基づく理念はすごい。

最近NHKのドラマを見て本当にそう思った。

国連難民高等弁務官時代「私しかいないんだもん。そのためにここに居るんだから。私がやらなくて誰がやるの。」と言い切る姿は、責任感を果たすトップが具象化されて存在していた。

彼女が国連難民高等弁務官に就任した時、時代はバブル真っ最中。
「潤沢な援助金を背負って来る日本人」という評判は、彼女の行動でどんどん変わってゆく。

彼女は自分の信念を貫いた決断をして、組織の考え方を変えてたくさんの命を救った。

彼女の決断基準はとてもシンプルだった。

助けられる命は助けよう。
次のチャンスがあるかも知れないのだから。

彼女は、世界を救おうなんて、思っていない。
救えるなんて、絶対に思っていない。

だけど、命を助けるために、与えられた能力も、権力も酷使し、そのために努力する。
それが持てるものの「義務」だ。

自分の役割に与えられた「責務」を「義務」と考え生きている。

「決断」の難しさは、いつの時代も、誰もが同じ苦労をする。

でも、彼女の父親は「まずはどうするか決断する。その後はどうするかの方法だけだ。」と彼女にアドバイスする。
子供を置いてニューヨークで3ヶ月仕事をする時だ。

これは、今の日本人に一番必要な言葉だろう。

結婚や就職など「決断」は難しい。
なぜならそこに「自分だけの損得」を考えるから。

人としての義務、出会った意味、を考えて決断できるようになりたい。

何のために表現するのか

美術大学で学んだことは、アートではなかった。

「なぜ、表現するのか」ということを徹底的に考えさせられた。

歴史や哲学を勉強し、なぜアーティストが「こうやって表現したのか」を学ぶ。

社会情勢や芸術仲間からの影響を「こんなスタイルに見ることができる」というように、「表現」の意味を探り、自分がどうして「作品を作るのか」を語れるようになる訓練を受けた。

趣味で作品を作ることと大きく異なるところだ。

音楽家、写真家、すべての表現者はメディアを使って思いを表現してきた。

メディアは「思い」を具現化するための手段だった。

でもカメラが「技術」を乗せて、誰もが「芸術家風」のイメージを作れるようになった。コピーすることも罪悪感を感じない。
データももらうのは無料だからイメージも「無料」だと思っている。

「イメージ」は「感動」したから生まれる。
そして、技術を習得したから可能になる。

そんな努力を無視して「いいカメラは違うねえ。それ頂戴。データでしょ。」と発せられる言葉に、どれだけ創作者が傷つくのか、考えたことがあるのだろうか。

人は、神をまねて作られた。
そして、人は神を真似て、物を作ろうとする。

神は人を愛したくて作った。
人もまた、作るものに情熱を傾け、作ったものをいとおしく思う。

それを気軽に欲しがる人がいる。
それらは大切にはされない。
なぜなら、簡単に手に入るから。

愛情も人間関係も、簡単に手に入れて顧みない消費するだけの価値観。

その選択の先は何が起こるだろう。

2013年8月23日金曜日

無料なら、悪いことに利用するのは当然

最近、「コミュニティ」という言葉を多く見かけるが、そう呼ばれているのは本当に「コミュニティ」なのか。

商売の基本は「人が集まること」だ。

フェイスブックが上場できたのも、人が集まって儲けるビジネスが出来る土壌が整ったからだ。

SNSやゲームでも無料という言葉に誘われて寄ってくる人は多い。

一昔前、催眠商法というのが流行った。
今でも、田舎で行われているらしい。

これは「先着何名様に無料で商品を差し上げます」というチラシで人を集めて高額商品を売る商売だ。

人は無料に弱い。

叔母は「私はお金がないから大丈夫」と言いながら、無料で使える電磁治療器を使うサービスを提供する催事場に通っていた。

1ヶ月後、さすがに電磁治療器は買わなかったが、ある高額商品を購入した。言い訳は「毎日お世話になったから」だった。

ビジネスを始めるには、まず利用者が必要だ。

だから、サービス料無料である程度の数を集める。
これは、他のネットサービスも同じだ。

でも、ビジネスにあって、無料で使えるサービスは客寄せでしかない。

慣れているSNSが提供する通販や情報提供サービスなら、もちろん使うだろう。
利用することで、信頼関係が出来ているからだ。

でも、彼らが提供するのは「場」だけだ。

祭りのように、無料で楽しい場所を満悦するのは自由だ。
でも、周りに誰がいるのかを考えた方がいい。

無料に引き寄せられるのは「集まった人」が目的の人も居るのだから。

情報モラルは誰が「作る」?

子供のSNSでのいじめや性的被害など、問題が多いらしい。

権威ある方々が「情報モラルを作らないといけない」ともっともらしく意見するが、それは違う。

そもそも、親が買い与えている段階で、モラルも何もない。

そんなものが「子供に必要だ」と考える大人の方が問題だ。

かつて、なかよしという雑誌で「キャンディ・キャンディ」という連載があった。
漫画雑誌を買う家庭ではなかったので、話について行けずクラスでのけ者になった。

テレビゲームを買ってくれない親に「みんな持っているんだから」と言ってだだをこねたけど、買ってもらえなかった。
持っている子と仲良くなるしかなかった。

昔はみんな「金が無かった」ということもあるだろう。
ただ「みんなが持っているから」と言って子供の言うまま物を与える主義を持つ親は少なかった。

かつての雑誌は、300円ほどだった。
テレビゲームは1万位だった。
そして、今、スマートフォンは2万円を越す。

情報モラルより、それを平気で子供に与える親の精神の方がはるかに問題だ。

子供に本当に必要かどうか、自分の主義も持てない親。

「いじめられたら困るから」と言って買い与えて、やっぱりいじめに合ったとしたら、通信料を払って、何のためにその機械を持つのだろう。

自動車免許を取ったばかりの子供に車を与えて、保険代や税金まで払ってやることを「当たり前」と思う親。

子供が「欲望」を我慢することを学ぶ機会は、どこにあるのだろうか。

丸山健二の怒り

東京から、地元に帰るのあたって「田舎暮らしに殺されない法」という本を読んだ。

これを都会人の向けた「田舎暮らし」へのアドバイスと思って読むとしっかり裏切られる。

これはそんなナイーブな本じゃない。
都会に住む田舎者日本人への痛烈なメッセージだった。

孤高の小説家、丸山健二さんの著書だ。
その本を読むまで、彼のことは全く知らなかった。
単純に「こんなタイトルのような考えって、どんなものなんだろう」という好奇心だけで購入した本だった。

あまりに直球的な表現に、笑い転げた。

平和ボケして退職した日本人サラリーマンの未来を絶望的に表現している。
そうやって、彼らの目を覚まさせようとしている。

覚めるかどうかは疑問だけれど。

かつて、ベトナム戦争終結時のサイゴンに近藤紘一さんという産経新聞記者がいた。
彼もまた、当時日本に戻ってきて漠然とした生き難さを感じていたことがあったらしい。

それは多分「他人に任せて生きる」ぬるさだったかも知れない。

この本には、現代日本人が戦後作り上げてきたナイーブでぬるい性格をみごとに表現している。

企業にすべてをやってもらい、何一つ自分で切り開かずに、何かができる気分にだけなって退職して、いったい毎日をどう過ごすのか。

それは、どこに住んでも変わりないだろう。

彼はこの作品を通して、結局自分自身が鍛えられた田舎生活に感謝している。

最近、彼は「伝えるべき重要性」と「義務」を認識したのか、WEBで活躍し始めている。

今後の活躍を期待したい。

目に見えるものだけを取り除いても

はだしのゲンという漫画が子供に悪影響を与えるとして、管理する図書館がある。

それを今度は、とある「権威が「理解できる」というコメントを発表したことをニュースにしている。

こうやって、方法論を語ることで何が変わるのだろうか。

戦争中、何が起こったのかを想像して欲しい。

原爆投下後、傷ついた一般市民には、子供も居たのだ。

図書館が「見せたくない」と思う子供より、遥かに小さい子供達が生きぬかければならなかった時代があったのだ。

「心のケア」なんて言う言葉が馬鹿げていると思えるくらい、子供達はあの時代を生き抜く必要があった。

そんな戦争を始めたのは、国民から、言論や表現の自由を奪って棚にしまう「権力」だった。

それでも、みんな助け合って生きた。

あの漫画が素晴らしいのは、その人間としての強さと戦争の無意味さを訴えているからだ。

世論を動かして、権力に反発することも必要だろう。

でも、一人ひとりの行動より権力が恐れるものはない。

今回も、ある親が「子供に悪い」という意見する行動があったから、管理図書になったのだ。

今度は「子供に必要だ」という観点から、行動しよう。

管理されていてもいいではないか。

何度も借りに行こう。

管理方法を問わず、自分が子供達に現実を伝えよう。

子供が悪夢を見たら、抱きしめてあげよう。

人の情熱と信念は、権力に負けない。

それは、歴史が証明している。

「できる営業マン」に求められる役割

TOEICのスコアが無くて、成績抜群の営業マンが昇格できないというニュースを読んだ。

「職務定義が無く、能力が不要の日本企業ではありえるなあ」と思った。

これは、企業側の理論が顕著に出た現象だ。

企業は、安く、できる営業マンを使いたい。
ましてや、営業成績が良い人はたいした仕事もしない管理職にするメリットは全くない。

職務定義があれば、問答無用だ。
こういう成績の良い人に、アシスタントを付けて、もっと大きな仕事を任せればいいのだ。

英語が本当に必要なら、そのアシスタントが話せればいいだろう。
たいした問題ではない。

でも、企業は「変えたくない」から、給与と昇進ができない理由を作る必要がある。

そこそこの人間を昇進して問題はないか?
ある訳がない。

できる営業が部下にいるのなら、管理職としてやることなんてほとんどないのだから「ほどほど」にできる人間の方が企業内の「現状維持」に協力的だ。

でも、考えてみて欲しい。

営業において「営業成績が良い」ということは、それなりに説得できる能力を持った人ということだ。
人脈もあるだろう。日本式だけど。

そのような営業マンを海外に向かわせれば「説得できる仕事」ができるだろう。最初は、日本式でうまく行かなくても、能力がある人なのだからすぐに学ぶだろう。

方や、英語が話せても、話す内容を「持たない」営業マンは、ほとんど使いものにはならない。

どっちにしても、経営者でなければ関係の無い話だ。
中間管理職の使命は「人件費削減」なのだから。

職務が定義ないから、仕事は終わらない

ブラック企業だ、ブラック上司だ、と世の中は「悪」の追求に余念がない。

日本人は悪いことを「やった人(組織)」を吊るし上げる文化なので、これも典型的な形だ。

政府まで巻き込んで「調査」という名の税金をぶちこんで、またこれ「権威ある」先生のお言葉をありがたく頂戴する。

目を覚ました方がいい。

「正社員」は職務じゃない。
「アシスタント」は奴隷じゃない。
「派遣社員」は社員がやりたくない仕事をするのではない。

「管理職」は「決断して責任を負う」のが仕事なのに、部下のせいにして「昇進」できる「仕組み」を「変えようとしない」企業。

そこで働く人の「価値観」が問題なのだ。

何度議論しても、どんなに法律が出来ても何も変わらない。

職務が定義されていないのだから。

何故なら、そんな職務定義をしてしまえば、仕事が無くなってしまう人が沢山いるからだ。

そうすれば、企業が困る。
65歳まで「正社員」で雇う法律まで作ってしまったのだから。

だから、自分から辞める「仕組み」を作る。

「村八分」という単語が何百年も使われている文化だ。
手法は変わらない。

何故なら、日本人は新しく「変わる」ことは嫌だから。
学校や企業で起こることに大した違いは無い。

そして弱者を守る「正義の味方」を気取って「権威ある教授」が「政府が企業を野放しするのが問題」と意見する。

そして、税金を無駄遣いして作る「法律が必要だ」と呪文のように唱える。

歴史を振り返って向き合おう。

派遣法を変えて労働環境が悪化した事実と。

吸い上げる仕組みを充実するために

国と大企業が素晴らしい結婚をし、中流クラスのサラリーマンが大量に増えた。

その人たちが年金がもらえないから65歳まで職場で働くことを国に確約させた。
そして、役所も職場を作るために、公的施設をたくさん作った。
彼らはぎりぎりまでサラリーマンとして働く。

自分達が持った資産を社会に還元しない。
老後のために、しっかり貯めこむ。

大昔、農民が一年間働いて作ったお米を収穫後、取り上げるのには年貢という手法が使われていた。

今は、税金だ。
この場合、1年ではなく、ほぼサラリーマン生涯だけど。

いつの時代も国が欲しがるのは、出来たものを上手に「吸い上げる」仕組みだ。

今なら戦後のような露骨な「財産税」などは作れないだろう。
単純に不動産税の税率を変えることでなんとかなる。

消費税は、たしかに吸い上げられるけど、間接税だから効率的ではない。
やっぱり、サラリーマンが多くなれば、所得税の税率をちょっとずつ上げるだけでも、ものすごい増収になる。

自営業からの税金の比ではない。
だから、サラリーマンが一番。
正社員ならもっと良い。
効率的に吸い上げられるのだから。

大企業は、嫌な仕事をアウトソースすることで、雇用を増やす。

子会社を作ったり、サービス業が増えてゆく。
関連企業が「儲かる」話が増えてくる。サラリーマンが増える。
結果、サービス業に従事するサラリーマン人口は、製造人口より遥かに多くなる。

サラリーマンであれば誰でもいい。
彼らからの税金は効率的に吸い上げられるのだから。

中流クラスは日本の貯金箱

非常時になって「借金を返す」という当たり前のことをしようとすると、返すお金が必要だ。

今は、消費税でなんとかしようとしているけど、これで間に合うとは思えない。
だから、そのうち過去やったことと似たようなことを始めるだろう。

その時「持てる者」は誰だろう。

サラリーマン退職者だ。

財産や会社の年金他、収入の糧がある人から、システム的にすいあげる時、ひとりいくら、なんて考えない。

「どのクラスから一番、楽に、迅速に吸い上げられるか」を考える時、過去の事実は役にたつ。

ニュースは、90%も課税される金持ちが「大変」と騒ぐだろうが、国はこの大金持ちクラスから真剣に吸い上げようと思っていない。

小金持ちから25%の財産税と取るときの「お手軽さ」と会計士も弁護士も抱える金持ちから90%の財産税を取る難しさをイメージすれば、簡単な話だ。

貧乏人は対象外だ。
吸い上げようったって財産はないのだから。

だから、一番たくさん税収が期待できる中流クラスをターゲットにして試算し、税率などを決めるのだろう。

そうなると、正社員が増えて人の生活「安定」してほしい。
そして、家などの資産購入を買ってほしい。
今の経済発展のため。未来の貯金として。

そんな価値観で国民を洗脳する。
中流クラスの人口が多ければ多いほど、国の貯金箱機能は高まるのだから。

それは、歴史が、数字が証明している。

だから、国の借金が増えることを気にする必要はない。

払うけど、取ってから払うんだ。

ダイヤモンドの「戦後日本の債務調整の悲惨な現実」という記事を読んで、疑問が解けた。

河村小百合さんが寄稿されたこの記事には、日本が払えないほどの借金を持ってしまった時「何をしたか」の「事実」が書かれている。

細かい分析は横において、すごいと思ったことが一点。

戦後、国の借金は払った。
でも、税金をがっぱり取り立てて、それで充填した。

そして、無視できる借金は、法律を作ってチャラにした。
それと合わせて貨幣の切り替えを実施した。

なるほど、と思った。

現代でも通用する「仕組み」だ。

だって、老後のために金をためているサラリーマン老人が沢山いる。
彼らは裕福な年金や資産があるから、税金をシステム的に吸いあげる対象にはもってこいということだ。

一人借金800万の今、国として時代や立場が違うということはあるかも知れないが、「不足を税でまかなう」メンタリティは変わらないだろう。

現状の法律は守る(借金を払う)が、財産税として国民から吸い上げる。

確かに、国が借金をいくら作っても、サラリーマンが老後のために貯金してくれるのなら、別に借金がいくらなんて気にする必要なんてない。

財産税で吸い上げればいいんだから。

これ、過去のデータを見てみると面白いことが判る。

財産を沢山持っている人が多くなるのは当たり前だけれど、実際の総税収入では、少ない財産の人(たとえば家一軒持ってる)からの収入が突出して多い。

一番金持ちクラスの3倍以上ある。

中流クラスの老人が沢山いれば、日本は安泰だ。

日本企業からはイノベーションなんか生まれない

製造業、金融業、商社、いろいろな業界があるが、大企業は変わらない。
XX経済会という仲間内で既得権を分け合っている。

それらの会社を監査する会社も新聞業界もまた、彼らは安定したお客様だ。
悪いことは書かない。

どうしても書く必要があれば、必要最低限で社会的影響力を最小限に抑える形で提供する。

法律もまた、彼らの見方だ。
だって、大企業が提供する資金は莫大だ。

大学だってそう。
だから、大企業の都合の良いデータや法律ができる。

そういう大企業の中でも未来を見据えて、現状を変えようと努力する人達が居る。でも、そういう人はたいてい弾かれる。

「和」を乱すからだ。

事故が起きれば対処する「財力」があるのだから、別に変える必要はない。

それが、彼らの理論だ。

かつての大企業なら「会社の金で新しい事業ができる」なんて話もあった。
でも、今や上層部の仕事は社内の根回しだ。
または、決まりきった大きな取引における価格交渉することくらいだ。

新しいことに挑戦しようとしても、大企業であればあるほど、リスクはとらない。
つまり、自分の資産は効率的に投資したいから。

だから、日本は変われない。
そこで働く「正社員」が「安定」を求めるのだから。

そうやって「安定が一番」という「価値観」は醸成されてゆく。

だから、大企業から新しいものは生まれない。

新しいことをしたければ独立するしかない。
自分でリスクを背負って既成概念と戦う必要がある。

働き方の問題なのか?

日本の評論コラムを読んでいると、気になることがある。

たとえば労働問題。

「企業悪」の記事が売れるから、たいていは「虐げられた労働者を助けよう」系の記事が多い。

たまに、企業上司の立場で書かれた記事も読むけれど、それらのほとんどは「こうすれば、部下は変わる」というようなノウハウ系だ。

どちらの切り口も責任の原因は「相手」にあり、「こうすれば相手が変わる」ともっともらしく、説明する。

権威的な肩書きを使って。

でも、考えて欲しい。

そうやって、今まで世論を動かし、政府を動かし、他の人も、今いろんな法律を変えてきた。で、労働環境は良くなってきたのか?

「悪化している」と感じるなら、そもそも、これらの議論がいかに無駄かということが理解できると思う。

そもそも「向こうが悪い」という「責任転嫁の日本文化」が問題を悪化させているのだから。

若者達が効率的に「金のためだけに働く」という価値観しかもっていないのなら、それは今の大人が教えたことだ。

大人達は、自分達の生活を守るために「正社員至上主義」を貫いた。

派遣法などは「正社員の仕事を取らないために」作られた法律だったはずだ。
でも、実際は、非正規社員が4割を超える現実がある。

何故か。

職務定義もない「正社員」という既得権に守られた人々に給与を払い続けるためだ。

それを65歳まで雇う法律まで作ってしまった。
その人の能力など全く関係ない。

「正社員至上主義」を守るのが目的なら、今後も問題は悪化するだけだろう。

2013年8月22日木曜日

図書館の利用を増やす→知的需要が増える

やっかみと嫉妬だろう。

佐賀県の武雄市図書館がTUTAYAと一緒になって図書館の運営を始めたら、あちこちの「権威者」がいろいろ批判し始めた。

そもそも、この国の権威者は既得権を守るために、何か新しいことを始める人達を批判することで「前例」を作らせないようする。

文句をいう人は金を出す訳ではないから、無視すればいい。


で、彼らはやって大成功した。


そしたら、視察がひっきりなしに来るそうだ。

この「批判しても成功したら真似をする」という行動は、典型的日本人ビジネスマン思想が元に選ばれる行動様式だ。

「自分ではやりたくないけど、成功するならやってみよう」というこの行動、幻滅しか感じなかったけど、今は違う。

そんなこと言っている場合じゃあないから。

だって、人口は、ものすごい勢いで減っているのに、税金で維持しなければならない空港や公共施設の数はトンでもない数だ。

利用もしないのに、地元建設者と結託して、補助金をもらって施設をどんどん建てても、それをどう活用するなんて考えなかった過去の大人達。

その愚行の後始末は、若い人たちだ。

若い人たちのニーズは全く考慮されず、権威を使って法律で「変わらない権利」に変えないために法律を作った。

反対するが、そんなたわごとは無視すればいい。

目的は何か。

利用者を増やすことだ。
地域の人を集めるて、知り合う場の提供だ。

ひとつの建物が複数の機能を担って何が問題なのか。

過去のやり方にしがみ付いて時間はもう無い。

大手同士が派遣社員をお手玉する時代

お顔合わせという名の「派遣の面接」に呼ばれて行って来た。

大手派遣会社Aが、大手IT子会社Bに派遣されるためだ。
でも詳しく聞くと、その大手IT子会社Bは、某通信会社Cからサービスを受託しているらしく、そのメンバーとして参加して欲しいといわれた。

その時点で「やばい」とは思ったけれど、いろいろ質問した。

そうすると恐ろしいことを沢山聞くはめになった。

まず参加するプロジェクトは、C社からの「受託業務」だ。
とは言っても、職場はC社にある。

そこで、IT子会社Bとして仕事をすることになる。

でも、自分の所属は大手派遣会社Aだ。

つまり、大手の企業同士で、人材をかき集められる「仕組み」を作っているということだ。

まず、大手PC製造会社が物を売った結果、アフターサービスという仕事が発生する。

みんなが嫌がる仕事だ。

だから、それを誰かに任せる。

PCが売れなくなったり、電話権利権でぼろ儲け出来なくなった会社は、余剰人員を活用するために、沢山の子会社を持っている。

だから、親会社が製品を売った後は、子会社に任せる。

子会社に「仕事をやる」のだから、お互い損はしない。
親会社は、アフターサービルが安く済んで良い。
子会社は仕事が貰えるてうれしい。

連結決算対象なら、ほとんど意味のないことだ。

そこで今度は人材集めだ。

仕事を請けた大手子会社では人が調達できないから、派遣会社に頼む。

そうやって、何も知らない人が応募する。

違法かどうかを議論するつもりはないけれど、手数料はどれだけ取られるのか。

つまり、雇用は1しか発生しないのに、それを固めて「外注」することで、売上は2回(受託企業分、派遣会社分)発生している。

本来、経費が1しか掛からない部分だ。

誰かが幻想的な取引で儲けているなら、誰かが損しているはずだ。

そう、安い給与で働く労働者だ。


告発者を解雇するのは日本の文化

オリンパスや秋田書店だけではなく、告発者を解雇するのは一般的な行為らしい。

すごいのは、役所も告発を積極的に守ろう、とは思っていない。

「変化」を嫌がるのは、何も企業だけではない。
日本人の特性とも言えるだろう。

世田谷保健所も内部告発情報を企業側に漏洩した結果、当日付けでパートさんがクビにしている。

それ以外の会社でもいろいろ報復事件は起きている。

2006年になってようやく公益通報者保護法ができた。
これも「とりあえず作った」という法律なので、通報者がきちんと保護されるようなものではない。

つまり、法律があっても、実際は告発者の名前は企業に判ってしまうのならば、内部告発などする人がいなくなる。

当然だろう。

「正社員至上主義」の社会で告発者として解雇されれば、再就職だって、ほとんど無理だ。

だから、不正や衛生上の問題、危険な行為は事故が起こるまで誰もわからない。

ジャーナリストだって、昔みたいに正義感を持って大企業の不正など調べない。

だって、今や大企業の広告だけが彼らを生かしているのだから。


そして、事故が起こる。


そうすると、今度は「法規制」と騒ぐ。
悪いのは「管理しない政府だ」と責任転化する。

日本社会においては不祥事を起こしても大企業は社会から抹消されない。

何故なら、大企業仲間が守るから。
守られないのは、勇気を出して不正を告発した人だ。

資本主義には「淘汰」という自浄作業があるという。
でも、これは「神話」でしかない。

大手出版社の矛盾した言い訳(2)

オリンパスの菊川会長は、外国人社長を「文化の違い」で解雇して自分自身が社長に復帰した。

ただ、この時点で、外国人社長のウッドフォードさんは、権限を使って、お抱え会計法人ではなく、海外の会計監査法人を使い調査を進めていた。

解雇される前に彼らから、会計不正の可能性について報告を受けていたため、これを役員会で説明を求めた結果、解雇に至っている。

従って、海外の新聞では、オリンパスの粉飾事件はすでに疑惑として記事になっていた。

日本の新聞は何も書かなかった。

今回の出版社の場合も、似たような大企業の行動が見られる。

今回の場合、彼女が勇気を出して、告発したが、それは組織の「変化」を意味する。

日本人は「変化」を嫌うため、そのような「変化を求める」行動を求める「個人」を攻撃する。

だから、攻撃の結果、彼女が精神的な理由で休職されたのなら、きわめて「人間的」だ。

ウッドフォードさんはすぐ日本を離れた。
身の危険を感じたからだ。

彼女が職場に行き続けられる状況だったとは思えない。

オリンパスの時も会社は「文化の違いで解雇した」と誰が聞いても「はぁ?」みたいなことを真顔で言い訳した。

今回も、同じだ。

窃盗届けすら出していないのに、個人を会社として貶すことを「悪い」とも思っていない。

結局、どんな会社もたいした違いはない。

日本企業では「責任は取らず、既得権を守る」という仕組みは変わらないのだから。

告発者が20代だということだけが、この事件の救いだ。
若者にはまだ、不正に対するアレルギーを発症する人がいるのから。

大手出版社の矛盾した言い訳(1)

読者アンケートほしさに高額プレゼントに応募させる「手法」がある。

そのプレゼントの当選者数が全くのでたらめだったことが発覚した。

こんなこと、内部からの告発以外、バレそうもない話だから、誰がやったんだろうと思っていたところ、告発女性が解雇されていたというニュースが出た。

その後、出版社の説明が発表された。

彼らの言い分は「解雇の理由は、元社員が賞品をほしいままに不法に窃取したことであり、告発とは関係ない。」という理由だ。

何故かしらないけど、アクセスできなかった。でも、ミラーサイトで全文を読むことができた。

オリジナルの文章を読む限り、大企業らしい行動だと思った。

もし、彼女が横領したなら、警察にでも窃盗届けでもしない限り、この広告自体、名誉毀損になるだろう。

面子をかけて、ありもしなかった窃盗届けを出しても、盗まれるはずの賞品なんて、そもそも買える予算なんて割り当ててない。
購入の記録がなければ、窃盗が立証できないのだから。

そもそも、彼女が盗むほどプレゼント賞品が沢山あるなら、水増し告発自体が「嘘」になる。

しかし、会社は賞品をほとんど送っていなかったと認めているわけだから、彼らの「説明」は全く成り立たない。

もし、彼女が盗んだというのなら、減らした人数にすら賞品は送らなかったことになる。

これ、オリンパスの外国人社長が「文化の違い」でクビになった話に似ている。

正社員至上主義

変化を嫌う、日本人における一般的な労働に対する価値観。
正社員になれば、法律に守られるから、仕事をクビにされない安心感が欲しくて、正社員の雇用を求める。

プロとして仕事をすることがどういう意味かなど考えたこともなく、社会保障と残業手当がきちんと払われる雇用形態だけを求める思想、または価値観のこと。

この価値観では、最終目標が「正社員」であるため、「ここで何をどれくらい仕事をするから、このお給料なんだ」というような思考能力は必要とされない。

だから、ほとんど「給料が少ない」とぼやく。

この変形に「大企業正社員至上主義」がある。

大企業に入れば、退職まで安泰だから、年配になった時、企業にしがみつく傾向がある。この価値観を持っている人は、大抵ローンを抱え、そのローンが70歳になるまで終わらない。

この価値観を持った人は、いじめがあっても、降格されても企業にしがみ付く。

精神が病んでも、胃痙攣を持っても、大企業の「正社員」である「既得権」を死守する。


消費とリサイクルの矛盾

デパートは、セールの看板を派手に見せつけ、WEBでは通販が「タイムセール」と名を打ってクリックだけで買い物ができる。

その反面、リサイクルと言って、ペットボトルやダンボールをリサイクルすることを推奨している現代。

何か、間違っていないだろうか。

消費を促し、経済を発展させると言いながら、環境に気をつける生活を自慢する。

何か、間違っていないだろうか。

これ以上何を消費したら、人は満足するのだろうか。

今の日本は「消費」することを当然とする。
「欲しい」と思ったら、買う。

それが必要か、どの位使えるのか、その後はどうするのか、を考えもせずに。

企業は、その欲望を満足させるために「供給」し、その供給のために安い労働力を得るための「仕組み」を法律で対応しようとする。

また、均一な労働力を作るための「教育システム」と「企業正社員至上主義」という価値観を生み出した。

そして、彼らに安定的に物を買わせる。
企業発展のために。

何か、間違っていないだろうか。

もう、いくつも持っているハンドバック。
でも、新しいものが欲しい。

そんな価値観は、人生の大事な決断まで侵略する。

この人より、あの人と結婚した方が良い生活が送れそうかなあ。

物も人も「欲望」だけで決めてしまう。

今の日本人が一番欲しいものが「経済発展」なら、欲望は大きい方がいい。
リサイクルして、気分を良くするためにも、たくさんの消費が必要だ。
安ければ、たくさん買える。

愛も物も「量」と「値段」で決まる時代。

こんな欲望のまま選んだ人生の10年後はどうなっているだろう。

責任感をもってする「仕事」の意味

いつ頃から日本に職務としての責任感が無くなってしまったのだろうか。

暴力団を肯定するつもりは全くないが、任侠の世界が自分の場をわきまえて、きちんと責任を負っていた時代があったことは事実だ。

そして、過去において3人も死亡した祭り屋台の事故は起こったことがないことも事実だ。

どんな仕事にでも「責任」をもって行動しなければ、事故が起こるのは当然だ。

でも、仕事は「金儲け」であるのなら、誰も責任なんて感じない。

JR北海道の電源から火が出た事故が繰り返されたのも責任感の欠如が本当の原因だ。

ねじが緩んでいたことが原因と発表されたが、それも1件だけの事故じゃない。
同じ修理場で、同じ原因で何度も事故が起きた事実の「意味」を理解しているとは思えない。

責任は、誰も取らないのだから、何も変わりはしない。

暴力団を排除しても、何も問題が起らないのだから、たくさんの屋台を管理するなんて、たいした問題ではないとでも思ったのだろう。

主催者側は、提出された情報に漏れがないかすらも確認していない。
事故が起こって初めてあせりだし、保険に頼って、なんとかしようとしている。

これらのような事故は、これからも起こるだろう。
責任を放棄した個人や組織は「管理」の意味すら理解していないだろう。

世論は「法規制」を求めるだろが、そんなもの、時間の無駄以外ない。

「プロ」として仕事をする人は何処に居る?

花火大会で起こった爆発事故を知って、JR北海道の脱線事故を思い出した。どちらも時代の波に押されて「プロ」が消えた結果だ。

お祭りのテキヤは、元々任侠の世界の人達が仕切っていた。
しかし、暴力団を排除する法律で彼らが参入できなくなったところに、素人が参入してきている。

大会運営団体のいう「確認書類」だって「書いてあれば」よくて、誰も内容なんて見ていない。
法的な確認義務など無い。

これで、完璧な「誰も責任を取らない仕組み」になったのだ。

かつて、テキヤはショバ代のこともあり信頼関係がなければそもそも出店できない仕組みだった。

違法な世界なのかもしれないが、彼らにそれなりの運用ノウハウもあり責任感もあったのだろう。
そりゃあ、事故でも起こせば任侠界において面子が立たないのだから、出店者の素性だって気をつける。

何年も、また、何十年も事故が起こらなかった事実がある。
多分、それはどこかに「目を光らしていた人間」居たということだ。

線路事故もそうだ。
3年前に崩れているところに、抜本的改善を打つべきかどうかを誰も決めなかった。

多分、社内では検討していたはずだ。
でも、「検討した」で終わっているだろう。

何故なら「問題」は直したのだから、別にいい。
事故はまだ起こってないのだから。

年金の仕組みも企業への雇用もそうだが「事件になるまで引き伸ばす」というのは、日本の文化なのだ。

事故が起こるまで「問題の存在」を認める必要はないのだから、責任を明らかにする必要なんて全くない。

あいまいにした方が、日々穏やかに過ごして給与が貰えるのだから。

若者の自己主張をどう捕らえるか

若者のイタズラに対して、苦慮しているファーストフード店が日本以外の国でもあるらしい。

その若者を端的に表していた評論があった。

「最低賃金で働く、携帯を持った獣」

だそうだ。

最低賃金で働いている労働者はすでに人間扱いされていない現実。
この意見に賛成するも、反論したい。

何故なら、彼らは初めから「獣」であったわけではない。
労働者を「獣」にしたのは「企業」なのだから。

そもそも「働く時間がお金を貰える時間」という価値観を植えつけたのは企業だ。

「働く内容」ではなく、「時間」と「立場」で同じ仕事をしても給与で「差」をつけることを「当然」と考えた企業が生んだ「獣」であり、すでに人間ではない。

正社員というえさをぶら下げて、働かせても、ささいなことで、やめさせる。
タイムカードを先に押させて、残業させても良心すら痛まない「店長」という名ばかりの管理職。

表向きだけの「接客業」という「方法」を学ぶのは、「仕事をする」意味を学ぶこととは全く異なることだ。

マニュアルで「管理」することで、管理しているつもりの管理者は、これからも彼らの不可解な行動に翻弄されるだろう。

「獣」は自然に居るもので「家畜」とは違う。

多分、企業は「家畜」が欲しいけど、これから手に入れる労働者はネットという「自然」で育った「獣」なんだから。

獣は、轡(ルール)をはめても家畜にはならない。問題に対処するだけでは、無駄な時間になるだろう。

企業は自分達の価値観が生み出した「現実」を直視した方がいい。

4兆円の職場作り

「官製ファンド」というものがあるらしい。

これは、国が中心となって民間の企業やプロジェクトに投資する「組織」らしいが、その仕組みに総額4兆円の税金が使われるそうだ。

しかも、それらの管轄する庁がすべて異なるというらしい。

社団法人が、役人の天下り先になっていることがバッシングされて、無駄な法人は解散させられてきた。

しかし、「正社員信仰」で余人労力を切るわけにも行かない。
それを補強するように65歳の雇用延長という法律まで作ってしまった。

各庁は、団塊の世代の雇用確保をしなければならいから、当然、何かを作るだろうなあ、とは思っていた。

それが「投資ファンド」とは驚いた。

「投資」という甘い言葉で、肯定的なイメージがあるが、結局は金のばら撒きだ。

だって、どこに投資するかなんて、全くノウハウないのだから。

振り返って欲しい。

大雪りばぁねっとというNPOに任せた「復興支援」がどうなったのか。
その責任の有無はどうなったのか。

ひとつも経歴がない会社に8億以上の金をつぎ込んで操業停止になっている八王子バイオマス・エコセンターの責任有無はどうなったのか。

役人とつながりのできた組織は、金をもらって「やったふり」をして「失敗しました」でも全く問題が起きない。

なぜなら、役人は責任を取らないから。
だから、無駄なお金が使われるだけだ。

でも、それらはすべて、未来の子供達の借金になる。

大人達はチャラにすればいいとでも考えているのだろうか。

はだしのゲン・・・子供のために大人が変わる

反戦漫画「はだしのゲン」が自由に読めない、ということをいろいろな人が批判している。

でも、彼らが世論と押し寄せる無料メールの「苦情」に屈し、自由に読めるようにしても、「世論に負けた」程度のことでしかない。

批判することは、問題解決にはならない。

振り返れば、私の子供の頃「はだしのゲン」は自由になんて読めなかった。
そもそも、その存在自体を貶めていた。

「漫画なんだから、学校に持ってきてはいけない」という風潮がまだまだあった時代だ。

あの本が、図書館に「存在する」というだけで驚いた。
だから、それが簡単に借りられないことに非難するくらいなら、それを肯定した上で、大人が行動しよう。

子供達のために、積極的に借りに行こう。
そして、主張しよう。「私の子供には見せたいから」と。

どんな教育を自分の子供に受けさせるかは、親の権利だ。

それに対して、誰も文句を言わない。

次々、借りに行って待たされるようなら「税金投資しても、子供に読ませたい本が借りれなんておかしいですよね。人気があるのなら、複数購入をご検討いただけませんか?」と投書しよう。

苦情ではなく、あくまでも大人の対応だ。

行為を非難することで、世論を動かし、権力の行為を変える、という「手法」は楽チンだ。

今の時代、PCの前で無料で文句が言えるのだから。

でも、行動することには、エネルギーも時間もかかる。
他人事ではなく、自分のこととして、行動しよう。

まず、自分の子供にゲンを読ませてみよう。

一人ひとりが行動して生まれる価値観だけが、未来を変えるから。

2013年8月19日月曜日

「戦争をしない」という決意の遺産

終戦記念日前後にだけ、第二次世界大戦のことを振り返る記事が多くなる。
その中でも、山田厚史 さんの意見には、考えさせられた。

彼はダイヤモンドオンラインに「世界かわら版」というシリーズを持っている。

8月19日の記事に「(憲法にある)戦争をしないという決意は、死んでいった300万人の命が作った遺産だ」という捕らえ方は、新鮮だった。

私たちは「遺産」と考えるとき、「家」「財産」という「いくらもらえるか」という価値観しか持っていない。

憲法だって「アメリカが与えた民主主義」という切り口でしか議論しない。

でも、あの戦争で300万人以上の人が死んでいった事実がある。

子供を作って、未来を作ったかも知れない貴重な命。

アメリカも日本も「二度と、あのような戦争が起きてはならない」という思いがその決意を導いた。

そして、私たちは、その遺産の重要性をきちんと理解しているだろうか。
それを守るために、努力しているだろうか。

自分の将来のためだけに仕事をし、お金を貯め、不安を減らそうとしても、結局、他の不安が増えるだけの日々。

他人を信じず、分け与えず、問題を避けるために他者と関わりを持たない。

そこに「忙しいから」という言い訳をして、老人を、子供を「誰か」に任せて目先の金のために時間を費やす。

いっしょに暮らす、身近な家族にすら、その存在を当たり前に思う。

こんな日常を続けて、面倒なことを「誰か」に任せるように「平和」も「誰か」が守ってくれると信じている。

みんなが「誰か」に頼ったら、守る行動をする人は居なくなるのに。

平和は、願っただけで得られるものではない。
憲法で守られているからでもない。

遺産は、もらって使うだけではない。
次に引き継ぐ義務が、一人ひとりにあるのだから。




戦後補償という「考え」・・・立法を支えるもの

戦後補償の考え方は、その国々で異なるのは仕方がないとしても戦争を起こした責任への向かい合い方は、その後の社会形成において大きく異なるように見える。

ドイツが戦後補償のための基金を作ったが、この財源は国だけではなかった。

比較的被害の小さかった企業からも集めて「持てる者の責任」を求めた。
これは、持てる者が持たざる者を助けるのは「国民としての責務」という理念があるから、法を作って弱者を助けることができた。

クリスチャン文化だからだろうか。

また、ドイツには「ナチス」という怪物を生んでしまった現実があるが、これについても「事実を未来に教育し、忘れない」という責務を認識し立法されている。

これも、「自分たちは罪びとである」と認めるクリスチャン文化ではそれほど違和感はない。

つまり、立法は国民の「理念」から作られるものと言えるだろう。

では、日本はどうだろうか。

当時の司令官を死刑にすることで、当時の政治家達は、国としての責務は果たしたと思っていたのだろうか。

戦前の日本にあった「国家無答責の法理」という考えは、当時も今もあまり変わっていない。

国は「悪くない」。悪いことをやった「人」が悪い。
処分すればいい。
国民もまた、悪いことをやった人間をつるし上げる。
責任は「悪いことをやった人」にあると。

だから、立法は、そういう理念を支える。

「悪いことができないように」規制や管理が増えて、雇用が増える。
その管理費のために、ますます税金は高くなる。

確かに経済活動を促す仕組みだ。
そして、おめでたいほど、すばらしい理念だ。

戦後補償という「考え」・・・そのうちいなくなるさ

最近、最高裁が空襲被災者の訴えを棄却したが、その中に「これは立法で対応すべき問題だ」と明記した。

空襲被災者の問題は、1987年に最高裁で判決が出ている。
その時の考えは「受忍論」だった。

軍関係者への補償は50兆円を超えていたのに、戦争に巻き込まれた一般の国民への補償は「無くてもしょうがない」という。

この判決は当時まだ民主主義などと言うものが日本に無く、「既得権」や「権力主義」の価値観が社会全体に蔓延していることの象徴だ。

最近になって、ようやく裁判官の考えも変わってきた。
それは、何人もの人が「憲法の権利」を使って「国」を訴えたからだ。

「お上のやることは正しい」というマインドコントロールから脱出し、自ら行動した人だ。

でも、政治を担う権力者の考えは変わらない。
彼らは政治家にとって、消え行く弱者を助けることなどなんの得にもならないから、できるだけ時間を引き延ばす。
時間が経つにつれて、被災者が減ってゆく。

彼らの残り時間は少ないのに。

こういう「仕組み」を支える社会的価値観は「建前主義」だ。
政治家に陳情に行っても、彼らは行動しない。
たとえ、行動しようとしても、派閥主義の中で、何ができるのか。

結果を出すために決断しない。
彼らもまた「既得権」を守ろうとするのだから。

主権政党が変わるたびに「今度は違う」と信じるのは自由だ。
でも、日本人の「事なかれ主義」は戦前から変わっていない。
そこに居るのは「てめえ主義」で「全力を尽くす自分」を演出する政治家だ。
なぜなら、それを求めている国民が居るから。

国民一人ひとりが、自分たちの既得権を守りたいと思うなら、この先にある変化は「破綻」しかないだろう。

そう。そのうちいなくなるさ。

戦後補償という「考え」・・・やればいいんでしょ

戦後の急激な経済発展のため、人の価値観が歪んだ。

国の施策もそうだ。
問題が起きたら、それを規制するための法律を作って、世論をなだめる。

誰も「なぜそれが起こるのか」を考えて予防のための立法をしようとしない。

なぜか。
利権がからんでいるからだ。

結果、法律がたくさんできて、法律間の整合性も取れなくなってくる。
目先を変えるために「憲法改正だ」と声だかに叫ぶ。

「アメリカが与えたものだから、自分達の憲法を」と尤もらしく説明する。

でも、あの憲法、そういう「事なかれ主義」の民族が暴走することを「再発」させないためのものだ。

事実、戦争の原因は暴走するリーダーであったし、それを止める誠実な日本人の声は無視された。

「長いものにまかれろ」という日本の政治家を理解した上で、明治憲法を修正したものが今の「憲法」なのだ。

日本は、未だ変わっていない。

権力者になれば、目先の問題を解決することばかりだ。
票が欲しいために、税金確保のため、大企業の求める施策を考える。

それが必要ないと言うつもりはない。
しかし、立法を必要とする問題の原因は、規制することで何とかなるものではない。

それをやり続ければ、社会はゆがんでゆく。
そんな社会に住む人間の価値観もだ。

誰も「問題の本質」を考えて「変化」する気がない。

派閥や議席数。国民もまた、そういうことを騒ぎ立てる。
何かが起これば「町や国が悪い」と責任を押し付ける。

言われたから予算をつける。
検討会を発足する。

どんなことをしても、何一つ変わることはなく、時間と予算だけが消化される。

そして、また文句を言う。
役人が悪いと・・・・・問題は、そこじゃないのに。

戦後補償という「考え」・・・貰った憲法と価値観

アメリカがどんな思いで、明治憲法を修正し、今の憲法にしたかを考えるとそこには、彼らなりに日本人の本質を理解していたように思える。

軍の暴走を止められなかったリーダーから日本国民が平和を守れるように、わざわざ9条に起こして、権力者達をけん制している。

国の権力者達が起こした「問題」に対して責任追求を国民が実行することを認めている。

平塚らいてうさん他、女性運動をしても戦前は得られなかった女性への選挙権もだ。

言論の自由は言うまででもない。

そんな新しい憲法の下に、裁判で主張しても日本人の価値観は変わらない。

そもそも憲法の意味を判っていないのだから。

戦争に加わった兵隊さんだけが祭られて、補償されるという事実。
空襲で被害を受けた一般市民や、軍に利用されていたさまざまな人達。
自分の意見を主張して刑務所に連れて行かれた人達。

彼らもまた国のリーダーが暴走して始めた戦争の被害者だ。

費用問題が絡んでいるから、難しいということも理解できる。

しかし、日本は戦後、高度成長期を迎える。
消費欲を煽り「経済発展が国を強くする」という思想の元、企業も政治も爆走した。
企業も政治家も儲けることに一心不乱だった。
結果、世界的にも稀に見る経済成長を成し遂げているのだから、費用問題は言い訳でしたかない。

問題は、政治家がリーダーとして、国の「行動結果」責任者として、その「義務」を理解していないからだろう。

今もそれは変わらない。

実は、日本にも戦前は「戦時災害保護法」があった。
つまり「被害者の救済」という概念は、日本にもあったが、終戦1年後消滅。

経済発展という欲望電車に乗って未来へ走り始めた時、日本人の良心は置き忘れた。

「悪い人は死刑にしたし、みんなが迷惑したんだから、今更戦争のこと言ってもしょうがないでしょ」という子供じみた思想でしか発展してこなかった。

今一度、考える必要がある。

軍を止められず暴走させた始まった戦争は日本という「国」が起こした。

「国」として「被害者を差別する」事実は、どんな価値観を未来に教えるのか。
このような「国」から、どんな価値観を持った人間が成長するかを。

戦後補償という「考え」・・・対国民

お盆の頃は、反戦番組が多いけれど、最近見た番組でちょっと驚いた。
それは、日本において、一般市民の空襲被害者に補償が何もなかったということ。

兵隊とその家族へは手厚い補償が出た。
これは「国が雇用したから」だそうだ。

それ以外の「国民」は「受忍論」という理論の元「みんなが受けた被害なのだから、公平に受け入れるべき」という考えらしい。

さすがに、新しい憲法に基づくと、その「国」の考えは「間違っている」と思う人も少なくなかったようだ。

原爆被害者の場合は1957年に最初の援護的法律ができている。
それでも終戦12年後だ。

その財源元は、原爆を落としたアメリカではない。日本国だ。

落とされたものは、原爆だけではないのにもかかわらず原爆被害者だけが救済された。

このような「被害者の不公平」を変えるために、40年間、空襲被害者等援護法は14度ほど国会に提出されたけれど、すべて廃案。

過去20年は提出さえされなかったらしい。

ドイツの場合、被害者には差別がなく「国の名の下に起こした間違った戦争に巻き込まれた人に対して、国は道義的にも補償する義務がある」という理念の下で救済法が立法されている。

なぜ、日本はそんな考えにはならなかったのか。

これは、戦前の日本にあった「国家無答責の法理」という考えのためらしい。

これは「国家や公務員の違法な行為で損害が出ても国は賠償責任を負わない」というものだ。

これが日本社会が「政権を変える」ことでしか問題に対応しない思想につながっている。
だから、その役職につく人に「その責務を自覚しろ」と言っても無理だ。

でも、アメリカから貰った「憲法17条」が責任追及の権利を国民に与えた。
女性への選挙権もだ。

これが与えられていたから、国民が「国」へ立法で解決することを求めることができた。

でも、日本は変わったか?

変わらない。
そもそも日本の大組織には、職務に対する「責任」の義務を自覚しないのだから。

「共感して欲しい」という欲望の気持ち悪さ

WEBニュースをサーフしていると、「時代が求める」とも言える言葉が目につくようになる。

「共感」はそのひとつだ。

「人が自分の生活を共有するのは、自己承認欲求のためだ」と池田紀行さんは意見していた。

「恋愛コンサルタント」という人が、「もてる男になるためには、女性の話に共感するんだ。」とアドバイスしている。

日本の大企業で働いていた時もそうだった。

コンサルタントに正社員が「改善プロジェクト」を説明する。
やるだけ意味のないものであっても、そんなこと聞く耳持たない。
「俺たちのプロジェクトはすごいだろう」と共感と承認を貰うためだ。

それは、自分達が上層部に「プロジェクト予算」を承認してもらうために必要だから。

コンサルタント側も「それが失敗してもたいした影響がない」と判っている。
だから、「難しいですね」程度で話を濁らせる。
後から、失敗の責任を押し付けられると面倒だからだ。

ただ、改善とも呼べないものだから、失敗したところで、たいした問題ではない。

相談された方だって、客が「こうしたいけど」と言うことを否定なんてしない。
次の仕事が欲しいから。

みんなが「承認」した「実績」が部門予算を増やす。

「改善」と名づけられたプロジェクトがプロジェクトが進んでゆく。
「根回し」という名の交渉を1年かけて。

結果に責任を負わない彼らに重要なことは「やった事実」を残すことだ。

だから、この「共感欲求」に基づく行動は、金や損得が透けてみえる。

恋愛も友情も、損得を考えて行動して得たものは、いつまで続くだろうか。

「共有するために写真を撮る」時代の気持ち悪さ

日経BizGateに寄稿している池田紀行さんの記事を読んで、ちょっと気持ち悪くなった。

でも、この記事、すごく的を得た見方だ。

彼は「SNSの利用者は、誰かが「羨ましがって」くれることを「知る」ことで、自己承認の欲求を満たそうとしている」と分析する。

その欲望の先には、写真すら「共有するために撮る」のであって、「撮った写真を共有」するのではないと主張する。

何でもかんでも写真を撮って共有する人たちは、本当にこんなメンタリティで行動しているのだろうか。

彼は、だた漏れする「自己承認欲望」を刺激することで、ビジネスチャンスがあると見通す。

確かにそうだろう。

しかし、これは60年代、家電や車の「所有欲」を刺激して経済発展が起こったことと同じ仕組みだ。

今だって「消費主義」は、いろんな形で物を買わせようとする。
簡単な返品、お手軽な支払い。

何時だって企業が消費者の欲望を刺激して「お金を儲けよう」という理論は変わらない。

ただ、バーチャルとリアルの絶対的な違いがある。

リアルは「金が無い」ことが行動を抑制するが、バーチャルには行動を抑制する動機がない。

アルコールもタバコも、欲望がコントロールでき無くなった時、大抵は病気になる。

この欲望の場合はどうだろうか。

人は「信じたいもの」だけを信じる

大学生の就職活動で配られる会社のパンフレットを「イメージ戦略」と言い切った人がいる。

東洋経済オンラインに寄稿しているムーギー・キムさんだ。

彼は続ける。
「それらは、怪しい投資勧誘と同じ位の警戒心が必要だ。そこに乗っている素晴らしい職場は、その店のシーズン最後のファイナルバーゲン並みに割り引いて考えるのが妥当だ」と。

PCの前で、抱腹絶倒した。その通りだ。

権威ある企業や肩書きを持った有名人を信じるように、応募する会社の会社案内を信じることのアホらしさ。

だって、大企業なら広告会社に大金を払っているのだ。
夢を売るプロが企業イメージ作る。

その目的を考えれば明確だ。
にもかかわらず、大学まで行っているのに、その広告を信じて入社して「パンフレットと違う」と主張するって・・・・
今の世の中、そんなにナイーブな若者が多いのか。

彼のすごさはそれだけではない。

ブラック企業とレッテルを付けられた会社の株価が落ちていないこと、不買い運動など起きていない事実を明確にして、その会社を非難する人たちを黙らせる。

某大手衣料企業だけではない。

大企業も中小企業も企業イメージを高めて若い人を誘い込むように、広告並みに金をかけて会社概要を作る。

素敵な職場や立派な先輩を演出して、何も知らない若者を呼び込む。

でも、それの何が悪いんだろうか。

大企業というだけでそこに職を求めたのは自分自身だ。
イメージを信じたのも自分だ。
その中で、落ちこぼれる人もいるのは当然だ。

受験戦争時代、落ちこぼれる人がいたように。
どこに行っても「仕組み」はなんら変わりはない。

何を求めてその会社に就職するのか判らないけど、働けば貰えるような地位はどこにも存在しない。

自分が選択した「事実」の意味を考えた方がいい。

2013年8月15日木曜日

人が選ぶ「仕組み」で「仕組み」は支えられる

ブラック企業大賞が発表されたり、世の中はだんだん大企業に対して主張する風潮が出始めた。

法律を守らせるために訴える。
そして、大抵は「金」で問題をなんとかしようとする。

でも、大企業はほとんどの広告会社のスポンサーだ。
だから、さらっと語るだけになる。

当然だろう。

社会的批判が強い、と言っても、それらの大企業が倒産して「職場」が本当になくなったら困るのは、そこで「正社員」という「既得権」を持っている人たちだ。

そこに「広告」を売る企業だ。「店舗」を工事したり、備品を売る企業だ。

だから、どんなに「まずい」と思っていても、問題にするはずがない。

中国の軍隊でも賄賂によって行ける職場が異なるらしい。
「金」を渡せば、「子息」は資格が取れるような職場や楽な内勤をあてがわれるが、お金のない「子息」は肉体的にも過酷な部署に行かされるそうだ。

彼らは、彼らの中で「持てる者」と「持てない者」が別れてゆく。

社会は、今、大きく2つに分かれている。
「既得権」を持った人と「持たない人」だ。

持った人は、それを離さないようにしがみつく。
いじめられても、病気になっても。

そして「訴える」ことで、不合理に立ち向かおうとする。
得られなかった権利として、残業代を主張する。

で、この先に何があるんだろう。
企業は「政治」に仲間がいるのだから、法律を変えるだけだ。

歴史の事実を調べれば判ること。
「既得権死守」という価値観を持つ、一人ひとりが、企業を支えているのだから。

「区別」することは何の意味があるのか

「年齢詐称」という単語がある。

芸能人のニュースでよく見る単語だけれど、この意味が良くわからない。

「芸名」として偽の名前で仕事をしているけれど、偽の年齢は「詐称」という露悪的な単語を使われてニュースになる。

でも、偽の年齢だったことに何が問題があるのだろう。

日本では、年齢がすべてだ。
仕事をする時も、介護を受けるときもすべて「XX歳だからこうすべきだ」という「誰かが決めた」価値観を押し付ける。

人を「平等」に扱うために。

社会全体がその価値観を肯定しているから、年齢をごまかす証明書でもなければ、常に「所属」は決めらる。

「区別」される。

ホームレスに精神疾患者が多いことは、20年以上前から判りきっていることなのに、それを明確にすることで、彼らを「精神障害」に「所属」させる。

鬱の種類がどんどん増えている。
精神疾患があそこにも、ここにも多く存在する、「自分は鬱」という場所に「所属」して安心する。

「所属」を明確にすることで、理解した気分になる。
特別に対応される「権利」を得た気分になる。

「区別」はより「わかり易い」価値観を提供する。
「結婚している」か「独身か」を「勝ち組」「負け組み」と「区別」する。

だから、所属するための情報が「偽」だった時は問題になる。
「理解した気分」が「騙された」に変わるから。

どうでもいいことを知って「理解した気分」になって、それが嘘だったら「騙された」と考える社会。

ここで「個性を尊重する」という言葉は無意味だ。

「所属」を知って「理解した気分」は、個人を知るのに何の役もたたない。
その人と話し、時間を過ごさない限り、人は判り合えないのだから。


障がい者を「特別扱い」する必要はあるのか

子供の頃、父親が黒人のことを「汚い」と表現したとき、ものすごい違和感があった。今でも覚えている位だから、強烈な違和感だったのだろう。

その後アメリカで、障がい者が「ディスエイブル(できない)」と呼ばれていることを知った。

「ハンディキャップ」は使わないそうだ。

それを知って「障がい者」という言葉に常に感じていた「違和感」が消えた。

差別の「思い」が生み出す「言葉」や「文章」は、自分にいつも「違和感」を与える。

今、日本で精神的障がい者を取り上げるニュースも多いけれど、その切り口には「特別扱い」が必要であることを強調しているように感じる時がある。

でも、本当に特別扱いが「必要」なのだろうか。

「特別な理解」は必要だ。

でも、彼らが「平等の権利」として「学ぶこと」が出来たなら、仕事をすることに必要なのは「能力」だけだ。

だから、個人的には「特別扱い」もまた「差別」なように思える。
ただ、社会が変わりそうもなければ「特別扱い」は必要だろう。

ただ「障がい者」自身がそれを「当たり前の権利」と感じることがあれば、それはまた「違和感」を感じてしまう。

どんな対応も「正解」はない。
ただ、障がいの有無に関係なく、どんな人間にも必要なのは「特別扱い」でなく「状況への理解」だ。

個人を理解し、尊重することだ。

誰にでも、出来ないことがある。
でも、出来ることの方がもっとあるのだから。

出来ないことを「強調」する必要なんてない。
できることを「強調」すべきだ。

障がい者であろうが、無かろうが。
人として、そこに大した違いはないのだから。

障がい者の子供を持つ親が持つ「障害」

ハートネットというNHKの番組がある。

これ、正面きって社会問題に取り組もうとしている。

番組自体をあえてまとめようとしない姿勢は好感を持てるが、時々「何がいいたいのか」判らない時もある。

でも番組が見せる現実はいつも考えさせられる。

発達障害を持った子供達が増えているらしい。

彼らはかつて「自閉症」と言われたそうだが、今は、いくつかの病名に分かれている。
ただ、どの病名であっても、集団生活で人に合わせることが難しいことは事実だ。

気になったのは、その親が持つ「障害」だ。

子供の障がいを「親の育て方が悪い」と責められる現実。
彼らは、発達障害の子供と向き合う必要があるのに、周りから「偏見」という「障害」まで背負うことになる。

これは、あまりにひどすぎないか?

「障がい」は「できないことがある」だけだ。

この場合は「普通の子供と物事の捕らえ方が違う」だけで「大多数の子のように学習が出来ない」だけだ。

親のしつけが「悪い」からそうなったのではない。

家族が「あの時、こうしなかったから」と考えることは無駄だ。
起こっていない「現実」は、想定する意味が無い。

彼らは一人ひとり「個性のある人間」であるだけだ。

ただそれらの個性は「集団学習」で学習するには難しい。
でも「平等に学ぶチャンス」は彼らにもある。

これが民主主義での「平等」の意味だ。

学芸会でみんなが主役になることが「平等」ではない。

彼らの親が「偏見」という「障害」を乗り越える必要はない。
一人ひとりの個性を「尊重」できる社会であるのなら。

結局ほとんど変わってない、まあ、変わるわけないけど。

昨今、子供の学力が落ちてきていることを心配する人が多い。
社会的問題としてとらえ「どうするべきか」という意見も散見される。

ある「権威ある」大手教育企業の「記事」が主張する。

社会人基礎力を中学、高校からつける必要がある。
また、就職まで考えた学校選びが重要である。

つい、ため息が出る。

何にも変わらん・・・

かつて「受験戦争」という言葉があった。
良い大学に入り、良い企業に就職することが「幸せ」への道だと教わってきた。

その結果、どうなったのか。

「金」という価値観を求めて、人は都会になだれ込み、朝から晩まで働き続ける。

結婚もせず、人口は減り続け、老人はやることもなく毎日テレビを見続ける。
そんな親を施設に入れるために都会で働き続け、体や精神を病んでゆく。

「長期就業は素晴らしい」という価値観は企業が求めたことだ。
そして企業に忠実でいるような人材を大量生産したのが今の「教育システム」だ。

教育の「権威者」は大学が誰でも入れる時代になった21世紀、今度は「良い就職」を目標とした。

そもそも、大学は「就職」のために行くのではない。
「学びたいことをより深く学ぶ」ために行くところだ。

それを「企業」が「初任給」に差をつける、という形で「仕事」への価値観を歪め、プロフェッショナルを育てなかった。

そういう社会への「人材供給」を支えたのが「教育のプロ」という権威ある「教育業界」の企業達だ。

当然、このような主張を信じる大人も多いだろう。
だって、それが「大人」の欲しい「変わらない社会」なのだから。

消費を促す「仕組み」の先にある人生

サラリーマンが8割を超えて、企業に勤める人が多くなればなるほど、いろんな病気が増えてゆく。

「病気になるかも」という「恐怖」を撒き散らして「これを食べれば、改善されます。」と健康食品が売られる。

それを食べながら、コンビニの弁当をかきこんで、ペットボトルのジュースを毎日飲むサラリーマン。

夜、アルコールを飲み、夜食を食べる。

肥満になれば「やせる」という言葉に踊らされて高いダイエット食品を買う。
そして「給料が安い」とぼやく。

そんな生活を続けて10年。もう若くない。

その事実を否定したくて「若さ」を保つ化粧品や食品を買う。
権威ある先生が「この水は若返る」という研究発表をして牛乳より値段の高い水を「ここが安い」と言ってWEB通販で買う。

そして、そんな生活を10年続ける。
糖尿病や他の病気も出てくるだろう。

そして、文句を言う。医療費が高いと。

振り返って考えて欲しい。
いったい自分が何をやってきたのかを。

欲望のまま飲み食いし、運動もせずに体重を増やす。

そんな生活を「忙しい」と言いながら変えもしないで「金」でなんとかできる方法を探し続ける。

権威者の言葉をまるごと信じて「あれ」「これ」を買い続ける。

そして「この給与ではやって行けない」と不満を、家族に、社会に撒き散らす。

消費することで企業は儲かり、経済は活発化する。
企業は「権威者」の言葉を使って消費を煽る。
政府は借金を重ねても、経済発展することを正当化する。

その先に何があるのか。
日々、人は老いてゆくのに。

問題の原因は「個人」の価値観が「変わらない」ことなのに。

支払伝票を見た人が気が付かない訳がない

某NPOが復興予算を使い切って破産した件、誰かが伝票を使ってNPO団体に「入金」している訳だから、経理部の誰もが知っていただろう。

だいたい、街の予算、6割の金額がNPOに送金される伝票をみれば、事務員だって「ええっ」と思うはずだ。

金額が大きければ、承認印の数は多くなるはずだから、伝票を見ている人もかなりの人数だったろう。

でも、誰も言わない。

「自分よりえらい人がOKしているんだから」と思って、見ないふりをする。
日本の組織は、どこでも同じだ。

自分が払った税金が、どういう風に使われるかの意識がないから、「自分の仕事」だけをやる。

結果、取り返しの付かないことになっても、当事者意識はない。
そして、問題になった時「誰も責任を取らない」文化では、誰も「責任を追及しない」。

追及するのは「悪いことをやった」人だ。
5歳の子供でも判ることだ。

そして、事実を知っていた人達は「自分の責任ではない」ということを言い聞かせる。

「自分の上司が承認したんだから」と。

でも「悪いことをやった」と思う人を「悪い」と訴えて、何が変わるのだろうか。

金も戻らないし、無責任な体制は、責任を問わないのだから、仕組みは何も変わらない。

「悪いことをやった」と思う人に刑を負わせるのは感情論を満足させるけれど、同じことが起こるリスクは100%だ。

お金を「もらう人」と「与える人」がいるならば、「もらった人」より「与えた人」の責任の方が大きいだろう。

住友商事の銅取引だって、その責任を追及して、銀行に勝訴しているのだから。

だから、世界一般には、「責任」を負う立場にいる人間が高い給与をもらうのは当然だと考えられている。

部員0の「部長」という肩書きで給与が貰える日本は違うけど。

自分の金じゃないのだから、気にしない、気にしない。

某NPOが復興予算を使い切って破産した。
多くの人が代表者をバッシングしている。
12億位だそうだ。

これから、裁判が始まるらしいけれど、どうなのだろうか。
だって、契約書もあり、実施事実もあるのだから。
NPOだし、会計帳簿の方だって、営利企業とは記録義務も違うだろう。
100万扱っても、10億扱ってもそれは同じだ。

驚くのは、大金をポンを与えた町側の責任者を追及する声がほとんど聞かれないことだ。

ちょっと不思議に思って、調べたら、国の復興予算は2年間で19兆円ばら撒かれている。

各お役所は、ここぞとばかり、関係のないところにも「復興予算」の名目でがつがつ分捕っている。

この「仕組み」は末端の市町村まで同じだろう。

生活保護費もそうだけど、もらった金をどう使おうかは、その個人の自由だ。
ましてや、営利企業ではないのだから、使いたい放題使うだろう。

だから、それが出来ないように、身元を調べる、分割入金にする、報告書を出させる、契約を段階的に作る、など考えて「金を払う承認印を押す人」は責任を果たそうとする。

自分の責任の重さを理解していれば。

でも、実際は「課長がOKなら私もOK」方式で支払承認されてゆく。

日本の借金だってそうだ。
毎年予算オーバーを承認する仕組みすら、5年間はオッケーとしてしまった。
「建前」すら無視した。

だから、どんどん借金する。復興という名目もあるだろう。

金を「出す」大臣が気にしないのに、末端の役人がもらった金を厳しく監視することが「できる」と考えるほうがどうかしている。

自己表現の「欲望」

最近、自分の迷惑行為や常識知らずの行為を公表して、バッシングを受けている人達がニュースになっている。
これらの行為に対して、企業の対応も真剣だ。

これら一連の「若者の行動」に対して批評する人も少なくない。
これらの「人達」を「どう教育すべきか」なんてもっともみたいな「権威在る人達」の意見もある。

でも、これは変な話だ。

だって「権威ある人達」が作った、教育システムで大きくなった「若者」がやっている行為なのだ。

彼らは、大人の「価値観」を学んだ。
それを彼らなりに表現しているだけだ。

「悪名は無名よりマシ」という価値観がある時代、問題はIT技術ではない。
ツールがあるからというのは、たしかに一因ではあるけれど。

ただ、この現象自体、本当に「問題」だとは思わない。

馬鹿な行動をする若者はいつの時代もいる。
暴走族なんて、どれだけ大人を翻弄させたのか。

つるんでも「注目を浴びたい」という「欲望を表現する行為」が社会通念から外れることは、歴史的に見ても一般的だろう。

60年代の学生運動だって、参加している自分に酔っている人たちがたくさんいた。

ネット時代に、それを「個人」でやる若者と何が違うのだろうか。

企業がその行為を大騒ぎするのは理解できる。
でも、昔も多分そういうことをやるような若者はいたはずだ。

でも、職場で怒られるし、大人の背中を見て、衛生責任の重さを学んでいたはずだ。

だから、そういう職場は、そこで働く大人も食品衛生に関して、似たような価値観を持って仕事をしていることだ。

雪印しかり、赤福しかり。たいした違いはない。

だから、再発防止に躍起になるより、自分達がどんな意識で「仕事」をしているか、再確認するべきだろう。

2013年8月14日水曜日

「割引されない」合計金額と送料無料

某大手WEBに入っているショップで「XX日まで20%引き」なんて表示がついている商品があった。

送料も考えて買い物したのに、合計金額が20%引きされていない。
だから、WEB上では購入金額が一定以上だったので送料が無料で計算されていた。

自動メールを受信した後、店からきたメールは「これで処理しました」という一方的なもの。
合計金額はWEBで注文した時より「高い」金額表示だった。

ムカついて「キャンセルします」とメールすると「もう送りました」だと。

高くなった理由。商品は20%引いて修正していたが、それが送料無料の「金額」に達していないので送料が加算されていたためだ。

「WEBショップ」の「期間限定おとり商法」だ。

送料XX円は実は本当にその送料がかかっているわけではない。
店の取引量にもよるが、大体「月いくら」で契約している。

だから、送料の「あまり分」が利益になることも少なくない。

でも、システムは「期間限定」の割引を個別商品に反映させる仕組みが「完全」に対応しているわけではない。人的設定ミスもあるだろう。

ここの場合「割引期間、送料無料」という表示があったが「北海道、沖縄はXX円」というような表示が小さい文字で表示されていた。

これ「送料」のまた「送料」だ。「地域加算」で「送料無料」期間でも「地域加算」は取られるらしい。わざと判りにくく書くことで、客をおびき寄せる。

まるで、食虫植物のようだ。

この店からは二度と買わないから別にいいけど、某大手WEBで開業しているショップは注文商品のキャンセルボタンすら付いていない。

だから、近くのホームセンターに行ってみるべき。

特殊と思うものも大抵売っている。

リビューの評価で気になるところ

WEB通販を良く利用すると、ユーザーリビューを読むこともある。
大手では、大抵これの数の多さが、人気商品を作る理由となっている。
だから、書いてもらうためにいろいろな努力をしている。

おまけをつけるとか、送料を安くするとか。

お得になるなら、リビューもするけど、その入力項目は自然に「高得点」になるように設計されている。

基本的にクリックで注文して、受け取って払う、のだから「会社の対応」は2回位メールが来るだけ。
だから、リビューで「対応」や「配送状況」とか問われても「不満足」なんてつけない。

だから、WEB通販の仕組み上、取引を重ねるうちにそれほど悪い評価が出来ようになっている。

もちろん、「普通の商売をしていれば」の話だ。

だから、某大手WEB通販内に出品している個別商店は大抵95%以上の満足になる。当然だ。

だから店の評価が「高い」コメントにはあまり興味がない。

でも、不満なときには、ここぞとばかりみんな書く。
必ず書く。

その量が多いのは店として問題だけれども、本当の問題はその「種類」だろう。

たとえば、返品や商品の傷みに対してどんな「不満」が引き起こされたのか。
これを読むと会社の対応が大体わかる。ここで買うべきか、どうか。

でも、そんな思案が必要なのは、高額商品の時だけだ。
でも、小さな取引でいい加減な対応をする店なら、二度とそこでは買わない。

仮想でもリアルでも同じことだろう。

会社名は気にしないで

7月はマンゴーの季節だ。
この月しかマンゴーは食べない。

だから、注文した。

WEBで、いくつもの商店が広告している。
安さは売りになる。

そして「人気」も売りだ。

あるお店のマンゴーの値段が安かった。
「XXナンバーワンになりました。皆様、ありがとうございます」という広告付きだ。

だから、注文した。

送付先を間違って送ってきたから、受け取れなかった。
「送り先」を確認しないで、発送したらしい。

しかも、WEB上の会社名と違う会社名で送られてきたから、注文確認もすぐには出来なかった。

電話をかけると相手はWEBショップの「会社名」を名乗らなかった。

確認すると「同じ会社」と言うから、問題を指摘した。
そうしたら、中国語的なアクセントでしゃべる男性が恐縮して、再度無料で送ってきた。当然だ。

味は、最低だった。
スーパーのものの方がおいしいほどだった。

確実に台湾かタイからの輸入ものだろう。
でも、広告は「沖縄産」だ。

たぶん、「本当の会社」は輸入会社なのだろう。
その会社名ではWEB上で商品を売るには魅力が少ないので、沖縄らしい会社名をWEB上で名乗っているのだろう。

あくまでも推測だ。

もう二度と買わないから、どうでもいいのだけれど、「NO.1」の広告は来年も使われるのだろう。
リピートがいなくても、WEBの海には「安さを求める「魚」という消費者」がたくさん泳いでいる。

悪評が影響し始めたら、また会社名を変えればいい。
楽に商売ができる時代になったものだ。

変わらないのは、仕組みだけではない

ネットでニュースサイトを見ていると、ある芸能人がツイッターで意見したら「反論の罵倒に惑った」とあった。
この発言にフォローアーが、ああ言った、こう言った、と続くのだが、それに興味はない。

ただ、彼女が「本当のことが言えない日本」というようなコメントをしていると読んで、ふと思った。

「それは違うだろう」と。

自分が何を語るか、は自由だ。
それは、芸能人もそうだし、一般人も同じ権利を持っている。

だから、他者に対して発信したのなら、そこからのリアクションも受ける責任がある。

それは、自分の行動した結果だからだ。
その結果、その意見だけではなく、他のことまで罵倒される。
理不尽だとは思うけれど、日本は、日本人は変わっていない。

かつて、日本が戦争をしていた時も同じことをしていた。
もっと、過激なレベルで。

言論がどれほど制限されていたか、歴史を振り返えれば判ることだ。
第二次世界大戦中は、「この戦争は間違っている」と意見するだけで「非国民」と言われ、リンチされたり、警察に捕まったりした。

自分の意見なんて発言できない空気が「一体感」を醸し出し、戦争という目標に向かった。
今も、共産国が言論の自由を許さないのは、理由があるのだ。

ネットの時代、いろんなバッシングがあっても誰も殴る人はいないだろう。
仮想世界で罵倒されたところで、怪我をしたり、家を壊されるわけではない。
それも、せいぜい3日くらい。長くて1ヶ月だろう。

無視すればいい。
そして、どうどうと意見を言えばいい。

自由に意見ができる国であることと、先人の努力に感謝しながら。

2013年8月13日火曜日

暴力は「悪」。でも、とっくみあいの喧嘩はどうだろう

暴力は「悪」だと思う。

でも、兄弟で、子供同士で「取っ組み合いの喧嘩」をすることは「暴力」と言えるだろうか。

たぶん、暴力だ。だから、やるべきではない。

でも、子供時代に当事者同士が「取っ組み合いの喧嘩」をするということは「自分の行動結果」が「痛みを生む」ことを学ぶことだ。

人を殴れば、殴り返されて、痛い思いをする。
こんな単純なことを「取っ組み合いの喧嘩」は教えてくれる。

怪我をするから、と言って大人が当事者そっちのけで問題を議論しても、小さな当事者達は何も学ばない。

暴力は「悪」だ。しないに越したことはない。
でも、小さな体に宿った怒りを取っ組み合いの喧嘩で噴出させたとき、それは、自分の「行動結果」を学ぶ大切な機会ではないのか。

大切なのは「小さな人間」が「何を学ぶか」だ。

大人が子供を殴ることとは意味が違う。
「肉体」体験が引き起こすトラウマがあれば、「肉体」体験からしか学べないことがある。

痛みを体験して、自分の行動がどんな結果になるかを学ぶ。

「必要な体験」と言うつもりはない。

ただ、小さな加害者に対して被害者を「守る」だけが大人の責任だろうか?

大人が守ってばかりいても、小さな人間は生きるために必要なことを学べない。

彼らは、未来を作る人間達だ。
問題に向き合うことを教えるのに、早すぎることは無いだろう。

彼らがどう「行動するか」は子供の頃の体験に大きく左右されるのだから。

撒き散らかされた不満や怒りの中にある「悪」

「悪」は伝染する。

「欲望」という餌を食べて、どんどん活発化する。
そして、「欲望」は大抵満たされないから、「不満」という形で拡散されてゆく。

知らない人に悪態の言葉を送る。
他者を馬鹿呼ばわりして、からかう。
罵倒して貶める。

ただ「やりたいからやる」「できるからやる」というだけで、人を、個人を尊重しない行為が増えてゆく。

クレームをされても、それに向き合おうとしない。
何故なら「言っても無駄だから」。

「権威」が、物事を決めてゆく。
防止という名目のため。

当然、うまく行くわけではない。

そして、不満はあちこちに怒りとして、形を変えて撒き散らされてゆく。
そして、言葉として発せられ、記録され、繰り返し読まれて「悪」を伝播させる。

だから、誰かが何かを「した」「しなかった」ことを不満にする前に考えよう。

「何故、そういう行動になったのか。」

そして話し合おう。

家族の中から。
仲間の中から。

誰かに解決してもらうのではなく、誰かのせいではなく、当事者同士で真剣に向き合おう。

そして、気持ちを伝えよう。

そして、必要ならば、助けを求めよう。
理解してくれる人が見つかるまで。

見ないふりをすることは簡単だけど、その結果、何が起こったのか。
誰かに責任を負わせるのは簡単だけど、その結果、何が起こったのか。

世の中を見渡せば、そんな選択が間違っていたことに気付くだろう。

だから、間違った事実を認めよう。
間違うことは「悪」ではない。

神は許してくれるのだから。

歯を6本抜かれて思った・・・いろいろな視点

今回の「総入れ歯プロジェクト」には3人の医者が相談に乗ってくれた。
歯周病の研究者、義歯のスペシャリスト、そして口腔外科の先生。

上顎の歯を残した時にかかる力、少ない歯で持つ期間の検討、仮歯の耐久性、残った歯に歯周病菌が増える可能性などをみんなで議論していた。
彼らはまた、私のケースを他の自分達の先生仲間とも話し合っていた。
そして、それらを説明して下さって、自分の意見を言われた。

病状はひとつだが、治療法に「これ」というのはない。

同じレントゲンを見ても、ある先生は「ブリッジなんて無理だろう」と思うかもしれない。別の先生は「いや、状態見る限り、大丈夫じゃないんだろうか」と言う。
いろいろ意見で議論することで、患者のベストを考える。

チームワークの素晴らしさは、いろんな視点が出てくることだ。

「安く出来ます」「儲かります」という「結果」ばかりで物事を判断や決断することは簡単だけれど、とても危険だ。

結果が思った通りにならない場合、「誰か」のせいにする。
自分がそれを選んだのに。

だから、まず、数字でしか判断しない「自分の行動」を疑うべきだ。

価格、給与、年金、学費、税金、資産、収入、予算、売上、などなど。

数字はわかり易いし、判断には便利だけれども、それがすべてではない。
数字によって、不満が増大される機会が多くなったと思うなら、その判断基準で未来を生きても、幸せの量が増えるはずがない。

でも、価値観は変えられる。
それは、自分が選ぶものだから。

誰かの意見ではなく、WEBの「誰か」やCMの「権威ある先生」が言うからという理由では選ばない。

自分の信じる人、出会った人と真剣に向き合って選択したのなら、結果がどうであれ、満足感が得られることは確かだ。

歯を6本抜かれて思った・・・見たくない事実

上あごすべての歯を抜かれたことで、歯周病治療を振り返った。
すると、自分の馬鹿な行動を客観的に見ることができる。

一番、情けない行動は「考えないで選んだこと」だった。

この洗浄液を使うと治ります。
この歯磨き粉を使うと菌が死にます。

極めつけは痛みを取り除いてくれた、歯科医の言うことを疑わずに信じてしまったことだ。

若さや無知が、行動を促したのはもちろんだが、言い訳にはならない。
私の中で「手早くなんとかしたい」という思いがあったのは事実だ。

職場から近かった歯科医だったから、仕事を休んでゆくことも無かった。

結局「都合がいい」ということだけで、さっさと治療を決めてしまった。
変だと思っても、途中で止めることもしなかった。

「痛みが止まったのだから、医者の言うことに間違いない」という思い込みがあったとしても、根本問題に向きあう姿勢が無かったことは事実だ。

今回、向こう10年以上にこの状態は「どうなるか」ということも医者に相談した。
大学病院ということで先生も説明に時間をかけてくれることも感謝だ。

「できるだけ、歯を残したい」という意思を組んではくれたけど、無理なものは無理である。

その苦い事実を直視することが「私」に必要だった。

事実と向き合った上で「何が出来るか」を「決める」のは大変なことだ。

責任を誰かに押し付けて、憎しみや悪口を撒き散らす自分の「問題」だ。
「社会」や「家族」のせいにしても、「悪」が増えて自分が苦しくなるだけだ。

だから、逃げずに、事実に向き合って考える。
事実は変わらない。そこに在るだけだ。

そこから、どうすべきかを決めるのは自分なのだから。

歯を6本抜かれて思った・・・日々の行動を振り返る

歯周病治療をしていたが、結局、上あごすべての歯を抜くことになった。
まだ、下あごは総入れ歯ではないが、こちらも時間の問題だ。

ただ、こうなっても歯周病菌が完全に「死滅」したのではない。
体質もあるが、免疫力が弱まれば体の中の悪い菌は、急激に活発化する。

だから、地道が歯磨きが必要になる。
眠い時も、疲れた時も。
きちんと磨き続けることで、その量を増やすことを防止する。

人の「欲望」を餌にする「悪(菌)」もまた、常に人の心に住んでいる。

「欲望」という餌を取り除いても、死滅はできない。
「悪(菌)」の量が減るだけだ。

免疫力が衰えれば「悪(菌)」は急激に活発化する。
手入れを忘れれば、「悪(菌)」は増えてゆく。

人が弱っている時、自分のことだけで精一杯と思うだろう。
準備してくれた食事を当たり前に思い、味に文句を言う。

でも、そういう時こそ「悪(菌)」は活発化する。

「自分さえよければ」
「自分だけが儲かれば」
「言わなくても判ってくれるはず」

人は、そんな考えに必ず言い訳をする。

「だって、ローンがあるから」
「でも、他の人もやっているし」
「だって、おいしくないのは事実だし」

どんな意見を言うのも自由だ。

でも、そこに他者を尊重する気持ちはあるか。
その行動は、欲望から発していないのか。
神の「愛し許す」教えに忠実か。

振り返れば、人は自分の欲望で行動する。

この人と結婚すると安心だ。
この会社に就職できれば大丈夫。
証拠なんて見つからないから問題にならない。

だから、一人ひとり振り返ってみよう。

今日は感謝の言葉を何人に伝えたか。
自分の子供を一人の人間として、きちんと向き合い、大切なことを教えたか。

魂の手入れは、毎日必要なのものなのだ。

歯を6本抜かれて思った・・・社会を構成するもの

歯周病悪化で上あごすべての歯を抜くことになった。
その治療の工程で判ったことは、ずいぶん教訓的なことだ。

まず、歯の本数が少なくても、支えあうことでなんかなる。
そして、強い歯は弱い歯を助けるが、そのおかげで弱い歯も強くなれる。
でも、残念ながら、少ない本数ではできることには限界がある。

私達が住む社会も同じだ。

自分の周りに「悪(菌)」が少なくなって、環境が良くなっても、失ったものは元に戻らない。

手元にあるものでやってゆくしかないのだ。

それは、自分が求めていたものではないだろう。
頼りないものかも知れない。

でも、失った事実を受け入れなければ、新しいものの構築は始まらない。

だから、「復興」という言葉は好きではない。
壊れたものは2度と元に戻らない。

社会的な価値観、家族関係、信頼感、友情、建物、街、そして「今まで持っていた」ものすべて。

これが事実だ。

でも、新しいものを作ることはできる。

誰かが「作ってくれる」のを「待つ」のではなく、自分が欲しいものを作る。
自分の力だけではなく、自分の信じるものを信じる仲間といっしょに。

それをしたがる人は少ないだろう。
でも、支えあえれば強くなれる。「公平」を考えた「損得」ではなく、能力の「公平」を考えてそれぞれが責任を果たす。

できるところから。

「悪」が魂を占領する前に。

手遅れになる前に。

歯を6本抜かれて思った・・・自分が持っているもの

歯周病悪化で上あごが総入れ歯になったショックは大きかった。

人は「セカンドオピニオンは聞いた?」とか言われたが、正直、それを20年前に言って欲しかった。

無知とは恐ろしい。
あれから、ずい分学習した。

まず、歯周病は「菌」を殺さないと治らない。
そして、その「菌」は「えさ(歯石)」がある限り、増え続ける。
その「えさ(歯石)」を完全に取り除いて初めて「菌」は減り始める。

でも死滅しない。
だから、定期的なチェックが必要だ。
増えていないかどうか。

そして「えさ(歯石)」は、テレビで宣伝しているような道具や薬品で取り除けない。
地道で痛い治療だけど、削り落とすしか他はない。

健康な歯を抜かれながら思った。
これ「人間社会」に似ているな、と。

まず社会の問題は「菌(悪)」によって起きている。

「菌(悪)」は「えさ(悪の元=欲望、差別、憎しみ、ねたみ、無関心など)」が無ければ増えて行かない。

その「えさ」を完全に取り除いて初めて「菌」は減り始める。

でも死滅しない。
だから、一人ひとりが、定期的なチェックを必要とする。
「悪」が増えていないかどうか。

仕組みを変えても、組織が変えても、悪(菌)が減らなければ病状は悪化するだけだ。

一人ひとりが持つ「欲望」を「えさ」にして「悪」はどんどん増えてゆくのだから。

これを、クリスチャンは「罪」と呼ぶ。

だから、人はみんな「罪人」だ。

歯を6本抜かれて思った・・・支えあう意味

歯周病悪化で上あごが総入れ歯になった。

健康な歯を抜かれながら思った。
これ「教会活動」にも通じることあるなあ、と。

歯は何のためにあるか。食べ物を噛むためだ。生きるために食べなければいけないのだから。

だから、歯が「噛む」機能を失うのは「生きる」ことが難しくなるということだ。

別に、教会に行かなくても礼拝を守ることはできる。
一人で聖書を読んで、礼拝もオンライン。
バーチャルなグループに所属することもできるだろう。
たしかに、今の時代、そんなことが可能になった。

聖書から学べるのならば自分ひとりが「生きる」目的は果たすだろう。
しかし食べるために必要な「歯」のような「噛む」機能は果たすのだろうか。

教会は、人が集って礼拝する場所だ。
そして、集まることでキリストと共に生きる目的を持ちながら生活することができる。

一人ひとりが、信仰を持って力を合わせて生きてゆく。
健全な歯、一本一本が集まることで「噛む」という機能が果たせるように。

弱くなっても、強い者が支えてくれる。
数が減っても、支えあうことでなんとか機能を果たす。

それは「生きる」ことに繋がる。

神が「人」出会わせる意味は、その人だけが何かを「得る」ためだけではない。

貴方もまた神が必要として生まれてきている。

だから、出会った「人」をまず愛することだ。
教会を支え続けてくれる老人達に対して感謝し、今度は「若者」が「支える」役割を認識する必要がある。

生きるために重要な「機能」を果たすために。

歯を6本抜かれて思った・・・それぞれの頑張り

歯周病悪化で上あごを総入れ歯にするため、歯を6本抜いた。

この歯はそれぞれ状態が違った。
2本はほぼ健康だったが、他の4本は本当に弱いものだった。

でも、強いものが弱いものを支えた。
そして弱い歯は強くなった。

健康な歯を抜かれながら思った。
これ「人間社会」に似ているな、と。

この貴重な歯達は、6本しかなくても、12本分の力を支えた。

たしかに100%ではなかったけれど、私が健康でおいしく食事ができる程度には機能した。

人も、そうだ。一人ひとりを尊重し、感謝と愛を持つ必要性を伝え続ける人は少ないかも知れない。

でも、その人たちが「教会」という同じ信仰者として集い、つながることができれば、そこで発揮できる力はそれなりの機能を果たすだろう。

でも、「菌」に侵されていなければ歯を抜く必要もなく、12本が支えあえ100%の力を発揮できたはずだった。

社会を構成しているのは、ひとりひとりの意識、価値観、思想にかかっている。

そして「悪」という「菌」に侵されいる状態は、それぞれが違う。
それでも、その状態を自覚し、菌を殺せば、病気の進行は止まる。

その後は弱い「一本」ながらも立ち続けることができる。
支えあえば、もっともっと強くなれる。

社会は、そんな人たちで出来ている。

そして、支えあうことで、より強いものになる。
家族であり、クラスメート同士であれ、会社であり、教会であり。

だから、強い愛を持って、信仰を持って、他者を愛して、尊重する。
行動するのは「誰か」ではなく、「私」だ。
そして「行動をし続ける」れば、人は変わる。

「愛」や「尊重」の強さを信じるべきだ。
人は人に影響されるのだから。

歯を6本抜かれて思った・・・支えられる限界がある

歯周病悪化で上あごが総入れ歯になった。

7本の歯を全部つなげて12本分の歯を作る「オールブリッジ」にしようとして調整していたが、一本の歯が、日常生活に耐えられずに割れたので、治療を諦めた結果だ。

そもそも、体重の2倍の力がかかる上顎をたった7本の歯で支えようという考え自体に無理があった。

歯周病治療後の歯だから、それぞれ、それほど強くない。

でも、調整治療の段階で、かみ合わせのバランス良くなってから歯の状態がそれぞれ良くなっていた。
医者も驚くほどに良くなったのだ。

希望があったのに、それは一つの歯が割れたことで駄目になった。

健康な歯を抜かれながら思った。
これ「人間社会」に似ているな、と。

一人ひとりの魂が、憎しみや不満、そして他者を尊重しない価値観で作れた「組織(家族、学校、会社、地域)」であっても、変えることはできる。

一人ひとりが「悪」に立ち向かうことができる。

一人ひとりが、今日から、感謝を伝えて、相手の意見を尊重する。

でも、自分の周でそれを一人だけで「やり続ける」には限界を感じる時があるだろう。

でも、忘れないで欲しい。

一人ひとりが持っている魂は「悪」という「病気」に侵されている進攻度合いがそれぞれ違う。

それが「個性」だ。

貴方の行動で、誰かが変わる。
絶対に。

同じ行動でも、ある人は無視するかも知れないが、ある人は感動するかも知れない。

重要なのは「自分が」続けること。
他者の評価ではない。

貴方が素晴らしいのは「他者を尊重する」ことを「「やり続ける」と選択する」ことにあるのだから。

神はきっと見ていてくれる。

歯を6本抜かれて思った・・・治療の経過から

歯周病悪化で上あごが総入れ歯になった。

「ブリッジ(連結)」という治療で、見かけはきれいになったが病気は進行した。
結果、残った7本の歯を全部つなげて12本分の歯を作る「オールブリッジ」にしようとして調整していた。

でも、失敗した。

一本の歯が、日常生活に耐えられずに割れた。

残り6本だって、良い状態じゃあない。
で、ブリッジ治療を諦めた結果の「総入れ歯」だった。

健康な歯を抜かれながら思った。
これ「人間社会」に似ているな、と。

上顎12本分の歯は、3分割に連結されていた。
この時点で「歯周病治療」はしていない。
病気の進行で連結した物自体が揺れ始めて初めて「歯周病治療」に入った。

そして、今回歯周病治療をしての「オールブリッジ」だった。
これ調整の段階では、残っていた歯の状態がかなり改善した。

でも、一本は割れた。

「悪」という病気を治さずに、見かけを整えても、長くは持たない。
いずれ、「塊」自体が揺れ始める。

それは、家族や学校、会社や地域の「組織」と呼べるだろう。
そこから「悪」という「菌」を殺して存続に成功する「組織」は少ない。

信仰を持って、魂を強くして生きていても、一人の力では限界がる。
そして、がんばっている人達も燃え尽きてしまうかもしれない。

そうなったら「総入れ歯」だ。

だから、そうなる前に、尊重しあおう。
他者に感謝をして、それを伝えよう。
弱いものを助けよう。

支えあおう。

一人ひとりができることから、始めよう。

歯を6本抜かれて思った・・・見かけは健康だけど

歯周病悪化で上あごが総入れ歯になった。

歯周病が悪化した時、個人医者に200万かけて3,4本の歯を繋げる「ブリッジ」という治療をした。

見かけは、とてもきれいになり、揺れていた歯も止まって、すっかり治った気分だった。

15年前以上の話だ。

見かけは、健康になったけど病気が治ったわけではない。
歯周病は「菌」が死滅しない限り、悪化するだけだ。

だから、悪化した。
個人病院でさじを投げられ、大学病院で調べると、ブリッジの下で抜け落ちるレベルの歯が何本もあった。

それから、数年後、総入れ歯になった。

健康な歯を抜かれながら思った。
これ「人間社会」に似ているな、と。

社会で起きている、さまざまな問題に対して、法を規制したり、組織を作って、表向きは「なんとかしている」という形を取る。

でも、借金は増えて、いじめは過激になる。

何故か。

「悪」という病気の存在を一人ひとりが認識していないからだ。

それぞれの人の魂が、個人を尊重しない「悪」に侵されている。
自分のことしか考えない「悪」に侵されている。

だから、社会の見かけは「機能している」ように見えても、「菌」は存在するから、病気は進行する。

仕組みを変えても、政治を変えても、健康になったように見えるだけだ。

だから、まず家族や友人を尊重しよう。
子供でも、お年寄りでも、命令するのではなく、彼らがどうしたいか質問しよう。
そして話合おう。

暴力、怒り、憎しみ、嫉妬、それらから出来ている一人ひとりの「魂の危機」から脱出するために。

歯を6本抜かれて思った・・・一人じゃあ駄目だ

歯周病悪化で上あごが総入れ歯になった。

そのため、ブリッジでつないでいた6本の歯を抜いた。
きちんと歯として機能していたのは2本だけだった。
残りは手で引っ張って抜けるようなレベルだった。

上あごは12本ある。
2本の歯で12本の歯は支えられない。
噛む力は、体重の2倍以上の力がかかるのだから。

健康な歯を抜かれながら思った。
これ「人間社会」に似ているな、と。

12本の歯が「社会全体」なら一本の歯は一人ひとりだ。

見えない歯周病という「菌」によって健康な歯が機能しなくなる。
菌は病気を広げてゆく。
強い歯もあるけれど、結局その強い歯だって、すべてを支えることはできない。

社会を「良くしよう」と頑張っている人たちがいるけれど、彼らは残されている「強い歯」でしかない。

「人を尊重しない」価値観は「菌(悪)」だ。

隣人を罵倒し、老人や子供の意見を聞かず、他者の行動をコントロールしようとする「悪」は知らず知らずのうちに社会を蝕んでいる。

そういう考えに対抗しようとしている人もいるけれど、彼らだって限界がある。
その家族で、学校で、職場で、地域で、頑張っていても、「悪」は感染してゆく。

無関心、割り切り、無行動、嘘、言い訳。

そんな中で、強い人だけが頑張っても何も変わらない。
結局「悪」に負けてしまう。

だから、一人ひとりが重要なのだ。

みんなで支えあえば、倍の力に耐えられるのだから。


暴力は「悪」。例外は無い。

体罰が多くなったとか、体罰は不要とか議論は不要だ。

暴力は「悪」だ。
それ以上でも、それ以下でもない。

体罰という単語も否定する。

権力を持った者が、弱いものに肉体的に傷つけることを肯定するような単語が存在すること事態、間違っている。

「障がい者」の単語から「害」を取り除くようになったように、「体罰」と言う言葉は使用禁止にして「暴力」と呼ぶべきだ。

どんな人も、貴重な個性ある「人」であると尊重する気持ちがあれば、子供だろうが、大人だろうが、暴力を振るうことなど決してできない。

「やっても良い暴力」などあり得ない。

体罰だ、しつけだ、と言い訳をさせるような価値観の存在自体が、加害者に言い訳させる。

「たいしたことじゃあないだろう」という傲慢の芽は必ず大きくなる。
何故なら、「罪」は人の「欲」から発生しているからだ。

悪いことは「悪い」、やってはいけないことをやった「罪」を自分で認めなければ、未来の行動は変わらない。

それは万引きでも殺人でも「罪」の大きさに違いは無い。

そして、人は間違いを起こす。
だから、許す必要があるのだ。

神が人を許したように、人もまた人を許す必要がある。

許された人は、その「罪の重さ」を認識しなければ、決してその後の行動は変わらない。

その傲慢さもまた人の持つ「罪」だから。

2013年8月11日日曜日

ビジネスの本質

買い物がクリックでできるようになり、値段が下がった。

でも、値段には「限度」というものがある。
だから、あまり安い値段の広告をネットで見ると「これは偽物かな」と思う。

だから、買わない。

それだけの話だ。

でも、「安い」と思って買う人がいる。
ぜんぜん知らない人と「ビジネス」をして、騙されたと嘆く。

何故「店で買うと2万円のものが2000円で売っている。」ということに疑問を持たないのか。

知らない人から電話が来て商品が紹介される。
6000円の健康食品を買う。

何故、彼らから「物を買う」ことができるのだろうか。
道ですれ違う人より得体の知らない相手なのに。

ネットに浮遊している「仮想商店」は、お祭りの露天商より現実感が無い。

いつだって、そこから消えることができる。
会社名だって、はっきりしないことだって少なくない。

仮想商店を「リアル」にするには、自分でその店の存在を確認し、何度も取引して、その商店と信頼関係を作るしかない。

これには、時間も努力も必要だ。

誰か(たとえば、大企業)の「お墨付き」をもらうのは、その会社を信用するための努力を誰かに任せることだ。

でも、彼らは「お墨付き」を与えているのではなく、金儲けのために、軒先を貸しているだけ。

お金を払えば誰でも借りられる。
何かが起きた時、彼らの責任を追及するのは自由だけれど、理論的には変だ。

貸したマンションでエステサロンが経営されていて、そこで火傷をしたら、誰の責任なのかをイメージするとわかり易い。ましてやWEBの中では、店の存在は「情報だけ」だ。

「物(サービス)を買う」行為は、その企業を「支える」行為だ。

それが、大企業であれ、悪徳企業であれ、真面目な小さな会社であれ、商売の本質に違いは無い。

「買う」と決めて行動したのは誰?

WEB時代に、簡単にビジネスができるようになった。
そして、誰もが商売できる環境が整ってきた。

でも誰でも「信用できる」訳ではない。
だから、法律というルールが整備される。

そして、残念ながら、良いものより悪いものが普及するスピードが速い。
消費者の無知に付け込んで、いろいろな人が、いろいろな手法で「騙せる人」からお金を巻き上げようと「商売」をやっている。

でも、消費者もまたいろいろな怪しい行動をする。

コピー商品やダフ屋からのチケットの購入。
儲け話を信じてネットで情報を買う。

悪が普及するのは、騙す側だけではない。
騙される方も思考を放棄し、欲望の奴隷になっている。

民法試案では、「騙された人」がなんとかなるように民法を変えたいと考えているようだが、それは無理だ。

彼らが自分の行動に責任を持って「買う」なら、そもそも怪しい「店」から買うはずがない。
見たこともない会社を「信用」して、金を払うのは「自分」の行動であり当事者の責任だ。

大企業も欲望を刺激し、消費を促す。

騙す企業も同じことをしているだけだ。

こっそりと。

どんな法律にも抜け道はある。

そして法律は、細かく作れば作るほど、抜け道が多くなる。
今までもそうだったし、これからもそうだ。

そもそも、問題の本質は法律じゃあないのだから。

選んだ「責任」と選択する「リスク」

責任を「誰か」に押し付ける文化は、いろんな形で社会に現れている。

まあ、それが新しいビジネスを生むことになり、雇用を増やすことにもなっている。
でも、それはどんな価値を社会に生み出すのだろうか。

この「連帯保証人」の廃止する「案」は、ある意味銀行に「ちゃんと自分で判断しろ」と言っているような気がする。

当然だろう。

もし、銀行がそれほど社員の能力を心配するなら、貸付担当者に保険でもかければいい。

すでに有利な条件で貸すのだから、リスクの価格は銀行の経費だ。

契約もそうだ。
当事者同士が契約して、それが履行されないのならば、履行されない方が訴えるだけだ。

細かいルールなど要らない。
それで開き直られるのなら、そういう会社と取引した自分の「決断」の責任ではないのか。

下請けが潰れて、プロジェクト停止されるなら、自社でやればいい。
持ち出しにはなるけれどそのリスクは「自分でやらない」と決めた段階で常にある。

下請けに出した段階で儲けを出しているのなら、「出来ないかもしれないリスク」を経費に入れるのは「元受」の義務だ。

そもそも、下請けを「選んだ」責任は、その会社にあるのだから。値段や広告で「決断」した責任は一人ひとりの当事者にある。

そして本来、どんな取引も当事者同士に「信頼関係」があるから発生しているはずだ。

人の生活に本当に必要なのは、新しい法律ではなく「信頼し合える関係」だ。
これらの「仕組み」を変えても本当に重要なことは「新しい法律」から生まれることはない。

「連帯保証人」が廃止されるらしい

ひょんなことから、120年ぶりに民法が改正されるということを知ってちょっと内容をかじってみた。

面白いなあ、と思ったのがその改正する量。

膨大だ。改正目的は「簡単にすること」だそうだが、改正試案を見る限り、その目的が果たされているようには思えない。

本も出ているようだけれど、国政のHPに大本となる文書があるから、それをまず読んでみるといい。
無料だし、デジタルだ。でも、それを見ると、この改正がどれほど大変なことか良く判る。

ネットでは「連帯保証人」が廃止になることの良し悪しを意見する人が多いのだが、ここに素朴な疑問が沸いた。

たとえば、マンションを買うとき、借りる「消費者」と貸す「銀行」がある。
大抵「消費者」は、生命保険に入って、マンションは担保にしてお金を借りる。

銀行は2重の担保を持つ。
それに3番目の担保として「連帯保証人」が必要っていう「仕組み」がある。

でも、これはあまりに貸す方に有利過ぎる。
しかもだ、その貸す「利子」は貯金でつく「利子」の1000倍の利率だ。
これ、フェアな取引だろうか。

アメリカのサブプライムローンやバブルが引き起こした経済危機は返済できないような金額を貸して利子で稼ごうとしたからだ。

でも、金融業は、お金を貸す時、保証人がいなくても2重の担保を得ている。

だから、担当者こそ、貸す相手の「保証人」になる気持ちで仕事をするべきだろう。

給与はその判断能力に払われているのだから。

新しい「仕組み」は存在しない

WEB時代になって、情報発信に費用がほとんどかからなくなった。

かつては、パンフレットを印刷し、改定し、在庫は破棄し、「情報」を管理するのは大変な作業だった。

今は、違う。

やる気になれば、どんな情報も発信できる。
そのアップデートもいつでもできる。

提供する情報は、商品に付加価値を付ける。
商品の作られる過程でもいい。
製作者の「思い」でもいい。

それらが「広告」になる時代なのだ。
それらを知ってもらうことで、お客が付く。

だから、大量に売ることを目的にするより、かつての問屋のように「取引を続けたい」消費者を選ぶ企業があってもいいのではないか。

問屋なら20件取引があれば商売になったのなら、200人、2000人の信用できる消費者を作ればいい。
そして、彼らが売りたければ、売ればいい。

それを「ディストリビュータ」として販売の「仕組み」を作ったのはアムウェイに代表されるような「ネットワークビジネス」だ。

WEB時代になったから「仕組み」が新しい訳ではない。

この「仕組み」はいろいろ問題が多いが、これは仕組み自体に問題があるのではなく、仕組みが「人の欲望を刺激する形であること」が問題なのだ。

紹介者を増やせば金が入る仕組みならば、人の欲望は暴走する。

商品を紹介することより「仲間を増やす」ことが「目的」になる。
そこには「買う」行為は「仲間にになる手段」でしかない。

そもそも、欲望を刺激しなければ、人は集まらないのだから。

「買う」行為の意味

安くておいしいものには理由がある。

大量に作るから。
安い材料で作るから。
そういう設備や仕組みを持った大企業が魅力的な値段で「製造できる」仕組みを作っているからだ。

流通しかり、原料調達しかり。個人企業なんて太刀打ちできない規模の現実を知ると、個人企業ががんばる姿はドンキホーテに見えてしまう。

WEBが出てきて「個人企業」にもチャンスがあると考える人もいるだろう。

でも、相手の「消費者」は大企業とのビジネスに慣れている。
個人企業も「小売」商売に慣れていない。

個人消費者は、気に入らなければクレームする。
誇大広告だからといって権威ある組織に投書する。
デジタル時代は机上で無料でできるから、お手軽に不満をぶつける。
そして、ぶつけるところはたくさんある。

個人のブログや評価サイト、ツイッター。
注目を浴びる場所はたくさんある。

小売と卸売りの違いに戸惑いながらも、魅力的な商品であれば続けてゆくことができるだろう。

でも、「値段」だけなら、そのうち誰も買わなくなる。
それほど、消費者は「気まぐれ」だ。

だから小さな企業が大企業と戦うためには「値段の高い」商品を作る必要がある。

大量に作る必要などない。
消費者が「値段が高い」というのなら、売らなければいい。

「買う」行為に「消費」という概念を捨てる必要がある。

「買う」行為は、信頼関係の構築であり、「安いもの」を「消費する」ことではない。

自由に潜む「悪」

聖書は「悪魔」の存在を肯定している。

個人的には「悪魔」という「生き物」みたいなものではなく「悪」という概念が「人間の欲望」と結びついた時に起こされる「何か」と思っている。

「自由」という言葉は「責任」という言葉と対であることこを知っている人は少ないのかも知れない。

これは「自分で選択する」結果の「責任」は「自分にある」という意味だ。

「自由」の恐ろしさは「選んだ結果は自分の責任」ということもあるだろう。

ここには2つの選択肢がある。
誰かに「選んでもらう」か、自分の判断基準に基づいて「選ぶ」かだ。

どちらの場合でも、決断するのは自分の責任だ。
だから、結果が不満でも自分のせいだ。

では、どうやって決断するのか。
近年、ここでの判断基準は損得であることが多いが、欲望が絡むと、ろくな結果にはならない。

ただ「自由」ということは、ここに損得勘定で決断することも出来るということだ。

仕事を選ぶ、学校を選ぶ、伴侶を選ぶ、恋人を選ぶ、友人を選ぶ。
人生には、選んで決断する機会がいくつもある。

その時、何を基準に選ぶのか。

給与やメリットだけで選択した結果、不満な日々を送るのは社会のせいではない。
そこを抜けるのもまた決断が必要だが、それを選ぶのは自身だ。

「不安」のために行動できず、現状維持するのも「自由」だからできること。

「悪」は常に傍にある。
悪魔の好物は人の不幸なのだから。

信仰を「持つ」こと、「理解する」こと、そして・・・

信仰は、空気であり、水であり、生きるために必要なものだ。
信じているから、希望が持てる。

信じることが無ければ、踏み出すことはできない。

だから、私は信仰を持てたことに感謝している。

導いてくれた人を、彼らを私の人生に与えてくれた神に感謝している。

ただ、私の信仰は「自分ため」だけだったような気がする。

人に押し付けたら悪いなあ、と思ってあまり主張もしなかったし、クリスチャンであることも公言しなかった。

でも、ある時から変わった。

信仰を「持つ」というには、自覚であり、覚悟だ。
たとえばオンラインショッピングで「購入」ボタンを押して自転車を買うように。

でも、信仰を持っただけでは意味がない。
「これを買った」という自己満足で終わるものではないからだ。

だから、理解しようとする。
たとえば、買った自転車に乗れるように練習する、みたいに。

そして、自転車に乗れるようになればそれで「どこかに行く」。
活用するために購入したのだから。

つまり、信仰も「持って」「理解して」初めて「目的」に向けて活用することができる。

それは「生きるため」だ。

病に倒れても、誰かに無視されてれも、生きていることの重要性、その意味を教えてくれる。

聖書が2000年も読み続けられてきているのは、教会組織の存在だけが理由ではない。

彼らが聖書の教えを「活用」したからだ。

自分もまた、それを活用する「義務」がある。

次の世代のために。

人生は、自分ひとりのためのものではない。

裁かれるのを「忘れて」生きること

新約聖書のヨハネの黙示録は、来るべき神の「裁き」について書かれていると言われている。

今日の礼拝では、この部分の説教があった。

その中で「神の裁きはあまりに恐ろしく、それを見ないようにして生きた方がどんなに楽なことか。でも、裁きの存在を意識しないで生きるから、人は罪ある行動を意識しない。」というようなことを話された時、はた、と思った。

かつて、日本人は「そんなことしたら、神様の罰が当たる」と言って、子供を躾けていた。

漠然とはしているが、そういう信仰が反社会的行動をすることのストッパーになっていたはずだ。
つまり、「神がどこかで見ている」という意識が人の欲望をコントロールし、行動を制御していた。なんらかの形で。

だから、信仰が無くなった時、欲望はコントロール不可能になる。

その結果、法律がたくさんできるけど、法律は人間の欲望をコントロールできない。
そして、人の中にある「悪」は欲望と共に好きなだけ行動することになる。

だから、自然信仰でも、組織的な信仰でも、結果的に「自分の欲望や怒りをコントロールする必要性」を教えているような気がする。

これは生きてゆくために、必要なことだ。

でも、それは簡単ではない。

自分の中にある、欲望や怒りの「存在」や「量」を自覚しない限り、コントロールなど無理だ。

また、自分の行動を客観視できなければ、抑制は無理だ。

欲望のままに生きるのは「人」の自由だ。
神は人に選択できる「意思」を与えているのだから。

「盗むべからず」という教え

人が作った創作物をコピーしたり、勝手に自分のサイトとして利用したりすることが、簡単にできるようになった。

できるから、やっていい、ということにはならない。
違法じゃないからやっていいということにもならない。

「盗んではいけない」という聖書の教えは、法律やマナーをはるか超えたところで人として「やってはいけない」ことを明確にする。

デジタル時代より前、音楽を演奏するときは、どんな時でも、アーティストはもちろん、その音楽の創作者もきちんと対価を得ていた。

IT技術が発達することで、誰もが簡単に「音源」や「画像」を作ることができる仕組みができた。
著作権管理が難しくなってきても「創作者が対価を得る権利があること」は誰でもわかる。

面倒だから、判らないから、でも、やりたいから、と言って他者の創作物を無断で流用する行為は「盗む」ことだ。

それで1円でも収入を得ているのなら「盗品販売」と同じである。
金額の問題ではない。

「引用」と「流用」は全くの別物だ。

論文の書き方を教わった時、引用のルールを、そして、文献のコピーは盗用であることを徹底的に学んだ。

音楽、動画、画像、何でも創作者の労力を尊重しなければ、「自分が作ったもの」への「他者からの尊重」は、決して得ることが出来ないだろう。

一人ひとりが「しない」選択をする。
行動を選択するのは自身だ。

法律があろうが、無かろうが、人として「やっていはいけないこと」が存在する。

「盗んではならない」というのは、その一つだ。

ある讃美歌の歌詞を読んで

礼拝で、借りていた讃美歌集をぱらぱら開いていたら、そこに「なぜ生きるのか」ということを詩にした讃美歌があった。
歌詞を読むとすごかった。

神に生かされているから、生きなければいけない。
神が前を歩いてくださるから、何をするか判らなくても、進まなきゃならない。
神が愛してくださるから、他者を愛さなければならない。

まあ、こんな感じの歌詞だった。

反論の余地が全くない。
その通りだ。

人は神に生かされている。
それも、神は「目的」を持って、命を、能力を与えてもらった。
自分ではその「目的」がまだ判らないけれど。

個人主義の社会では、すべて「自分」で成し遂げたと思いがちだがそれは違う。

誰かの励ましで、前進できたはずだ。
努力を続けられたはずだ。それが、本なのかもしれない。
バイト先の先輩かも知れない。

人は、一人で決して生きて行けない。
同時に、一人ひとり、その人だけが出来ることがあるはずだ。

自分を飾り立てる必要なんてない。
そのままで神は貴方を愛するのだから。

だから、出会った人を愛して、今が困難な時も進まなければ行けない。
だから、少しくらい迷惑をかけてもいい。

「頼ること」と、「利用する」ことは違う。

頼れる人がもしいないのなら、頼れる人を作ろう。
自分から一歩踏み出して。

貴方にも能力が与えられているのだからきっと出来る。

「公平」の意味

日本で「買う」行為には「定価」が大きく影響する。

かつては大企業が「この値段」と言って公言していた時代もある。
だから、物の価値を「自分で決める」ことには慣れていない。
というより、ほとんど出来ない。

アジアの国々に行くと判るけれど「定価」という「誰か」が決めた基準は何処にもなく、自分で相場を調べる必要がある。

その上で、いろいろな場所で値段と質を吟味して、買うかどうかを決めなければならない。

そんな場所での価格は「言い値」に近い。

しかも、人によって値段が変わる。
観光客なら、吹っかけられるが、地元人なら安くなる。

学費だってそうだ。金持ちなら高い学費を払ってもらうし、貧しい人は少ない。

当然だろう。
持っている人から取る方が、商売としては合理的だ。

こういう世界で「いくらですか?」という問いの答えにほとんど意味が無いことが判るだろう。

値段はその人がお金を持っている社会的地位によって変わるのだから。

これは「公平」だと思う。

持てる人はより多くのものを社会に還元するだけではなく、「持てるもの」としての「責任」という価値観を示す必要がある。

その行動がリーダーとしての威厳を身に付けさせ、時代を率いてゆく。

まずは、一人ひとりが「持てる者」であることを意識し、出来る範囲で分け与える。時間、労力そして能力。

お金で計らない「何か」を、社会に戻す。

少しずつ。
出来る範囲でいいから。

「公平」な社会のために。
神から与えられた能力を社会の中で活用するために。

2013年8月10日土曜日

甘味中毒者・・・消費の先にあるもの

物が豊富にある21世紀の仕組みの中で「消費者である」という意味は「大企業の売り上げに貢献すること」だ。

大企業が儲かれば、株価も上がるし、景気も良くなる。

でも、消費者が買い続ける先にある「消費者」の「体」を考えるのは、企業じゃない。

消費者一人ひとりだ。

でも、現在の「儲け」と「経済」を考えることも必要だ。

ただ、借金漬けの国が補償する、借金漬けのくたびれた道路という資産を抱え、人口は激減している「現実」は変わらない。

その上、安価でお手軽な食品を食べ続け、糖尿病予備軍を大量に作り、莫大な医療と年金費用が近い将来必要になる。

こんな、仕組みの中で、一人ひとりが年を取って退職し「会社」という「居場所」を失ってゆく。

少し、考えて欲しい。

何故、それほど金が必要なのか。
そして、何を基準に「買う」ことを決めているのか。
その結果、5年後、10年後、自分に何が起きるのか。

そして、貴方の周りがどんな社会になるのか。
そして、貴方はどうなるのかを。

甘味中毒者・・・「欲望」をコントロールできるか

現代は、誰かの責任を誰かに押し付けてビジネスが広がる。
その「価格」は商品、サービスに上乗せされる。

その傾向は、どこでもそうだ。
消費者は何か悪いことが起これば「政府」や「企業」のせいにしたがる。

かつて、マクドナルドを「肥満」で訴えたアメリカ人がいたが、この時のマクドナルドの反応は早かった。

政府へのロビー活動を活発化し、速攻で法律を作り「肥満で企業を訴えること」を「法律違反」にしたのだ。
当然これに賛成するのは、マクドナルドだけではない。
ソーダ会社もそうだろう。

「売る方が悪い」という理論は、自由主義では成り立たないけれど、本当にそうだろうか。

食べ物を「選ぶ」ことは、確かに個人の選択だ。でも、その意思決定のための情報は開示されているのか。
開示されていても、その意味がわかるような「単語」になっているのか。

まあ、企業や国のやることをいろいろ非難することはできるけど、視点を「自身」に向けてみる。

何故、貴方はそれを買い続けるのか。

100円のジュースも毎日買えば月3000円だ。
だから、通販で安く買った。
ちょっと変だとは思わないか?

そもそも、買い始めたのは誰だ?
「毎日欲しい」という「欲望」をコントロールできないのは誰か?

権威の言うことや政府を信じるのも「自分」だ。
でも、なにより「買う」という行動をするのは「自分」だ。

一般的に、欲望が自分の意思でコントロールできない状況は「中毒」と呼ばれている。これは「物」の問題ではなく「心」の問題だ。

ダイエットにいいからと言って、納豆やバナナを大量に買う。
新製品が出れば飛びつく。
大量に中毒者ができれば必ず儲かる。

麻薬もニコチンもそうだ。

「中毒」と呼ぶ、呼ばないが問題ではない。
欲望をコントロールできない事実は「個人」の問題だ。

そして、それは存在する。

甘味中毒者・・・権威を借りた「安全」?

人間の欲望を刺激し、消費させることで、世界が発展してきたのは事実だ。

しかし、アルコールもタバコも消費量が減ってきている。
体に良くないとみんなが「知り始めた」からだ。

そして今度は「食」だ。

より、おいしいものを求めている。
その中でも「甘味」は「見えない嗜好品」と言えるだろう。
社会全体が中毒化しているからだ。

嗜好品はすべてそうだが、人は刺激にすぐ慣れる。
「おいしい」と思う「刺激」もほとんどは、甘みと油に反応しているだけだ。
そして、もっと強い「刺激」を欲しがる。

これが「中毒化」への道だ。

昨今、肥満や糖尿病の問題が浮上してきている。
ようやく人は過剰な「甘味」が及ぼす悪影響を真剣に考えるようになった。

しかし、消費を煽らないと経済は発展しないし、儲けも出ない。
だから、かつてタバコやアルコール業界がやったことを、ここでもやっている。

企業がお金を出して研究発表を作成し「権威」によって「甘味」の「安全」を作り出す。

安い「甘味」は「安全」だから、安く作るためにはどんどん使う。
大量生産商品に活用され「よりおいしく、お求め安くなりました。」と宣伝する。

それだけでは足りず、テレビは「流行」のお菓子を「ニュース」として売り出す。
アイドルが「食べる」ことで購買意欲を刺激する。

人に「新しいもの」を消費させるためには、利権に絡むすべての「関係者」を総動員させる。
「もっと売る」ためには、消費を煽る必要があるのだから。

「甘味」の表示も複雑にして消費者の目に止まり難くくする。
そうやって自覚しないうちに「中毒化」は進んでゆく。

どんな中毒でもそうだけど。

甘味中毒者・・・欲望の暴走

中毒の怖さは、慣れると「もっと刺激の強いもの」を欲しがることだ。

安価な「甘味」に慣らされて、市販の食べ物の「甘さ」レベルが「普通」になった時、もっと強い「甘味」が欲しくなるだろう。

缶コーヒーを毎日2本、何年も飲んでいれば、当然糖尿病になる。

砂糖を使って無くても、すでに砂糖200倍、600倍の甘さを作り出す食べ物が作れる時代だ。
そして、消費者が求めるもっと「甘い」商品を「安く」作ることも簡単だ。

中毒者が増えれば増えるほど商品は売れる。
企業は儲かる。

そして「甘味」中毒者が糖尿病を発症する。
人体は、そもそもこれほど強い「甘味」に適応できるようには出来ていないのだろう。

そもそも、どうして「中毒者」ができるのか。

アルコールでもニコチンでも「より強い刺激」を求める「欲望」が人の中にあるからだ。

「中毒」の問題はどんどん量が増えてしまうことだ。

麻薬やアルコールは金額的にも「高い」ものだから、続ければ生活は破綻する。それても止められないと体が破綻する。

「甘味」中毒の問題は、その値段の「安さ」と「手軽さ」だ。

「甘味」がアルコールほどに値段の高いものであれば、中毒者の激増は起きないが、社会全体の仕組みが安い「甘味」を消費することを煽っていれば、知らないうちに甘味中毒になっている。

どんな中毒者も「自分は違う。いつでも止められる」と過信する。
でも現実を認知することは、難しいこと。

「手軽で安い」食べ物ばかり食べる人生の先に何があるか、考えた方がいい。

甘味中毒者・・・強い甘みを求める消費者

「コーン・キング」という映画が恐ろしいのは、見てもらえば判る。

ただ、今まで「砂糖」に中毒性があると思っていたことが、最近の情報を見ていると、「砂糖に中毒性がある」という研究結果は「間違い」ではないかと思う。

たぶん、砂糖という「製品」への中毒ではなく「甘味」中毒なのだろう。

食品添加物として安価な「甘味」が科学的に作られるようになって、かなりの年月がたった。
また、コーンシロップに代表されるように、とうもろこしからも安価な「甘味」が作られる。

結果、ほとんどの商品に「甘味」が使われ「甘い」食べ物がスーパーの棚を占めている。

それらの商品は、人の「甘味」への欲望を刺激し、購買意欲をそそる。

だから、スーパーやコンビニに行って「買わない」選択が難しい。
何故なら、大抵の人はすでに「甘味」中毒になっているからだ。

問題は、この「甘味」だ。食品添加物の「甘味」は砂糖の200倍から600倍の甘さ、コーンシロップは20倍だ。

人は「甘い」ものを「おいしい」と思う。疲れも取れる気分になる。
だから、甘い飲み物は売れる。

肥満の原因が、ソーダに代表されるような炭酸ジュースらしいが、これ、食品添加物なら甘くてもカロリーは0だ。
だから、飲みすぎてもカロリーベースでは肥満は起きないはずだ。

でも、「甘味」中毒ならどうだろう。
自覚しない中毒者の行動は麻薬中毒者と同じだ。
常に「甘味」を摂取し続ける。

止めることなどできっこない。

甘味中毒者・・・作られる工程

「コーン・キング」という映画を見た時、世の中は、思ってた以上「消費を促して儲けること」しか考えていないことが判った。

たとえば、高度成長前。

お酒は「ハレ」の日にしか飲めなかった。
砂糖はお正月にしかたっぷり使うことは出来なかった。
だから正月料理はとんでもなく「甘い」料理が多かった。

で、世の中が豊かになり、お酒も甘みも簡単に手に入るようになった。

値段的にも、量的にも。

それでも、欲望には限りがない。
企業は「もっと消費を増やすには」と考え、消費者は「もっと頻繁に食べたい、飲みたい」という欲望を膨らませる。

消費者、企業の欲望は一致し、砂糖もお酒も生産量はどんどん上がっていった。
アルコールを飲むチャンスはお祭りだけではなく、飲むことが「普通」のことになった。

そしてより大量に作ることで値段が下がる。
大量に売れれば「もっと儲けたい」という話になる。当然だ。

そして、砂糖より安い甘味料の開発。
より安いアルコールの開発。

それを「消費する仕組み」を地球規模で作り上げた。

結果、どうなったか。肥満と糖尿病が激増し、医療費がロケット並みに跳ね上がり始めた。

中毒者をたくさん作って、雇用をたくさん増やして、病人を作り、その人達への医療もまた「消費」のサイクルに組み込まれる。

抜ける方法はひとつ。「買わない」選択しかない。

「惰性」の先にある人生

生活のためにアルバイトをする。会社に行って仕事をする。そうやって、毎日が過ぎてゆく。何も変わらず1ヶ月、1年、そして5年たった。

今の人生を変えられないまま、周りと自分を比べて焦りだす。

いろいろ行動をする。デートもした。
でも、何も変わらない。

何故、変わらないのか。

自分が欲しいものは何なのか。

毎日「忙しい」を言い訳にして、祖母や祖父とも長い間会っていない。
あれほど、子供の頃に愛してもらったのに。

海外旅行に行っても、祖父母に会いに行く予定は立てない。

何故、会いたい気持ちが無くなったのか。

企業も、個人も、自分の生活を守ることばかりを考える。
そして「変える」ことを受け入れなくなった。
だから、みんな「今のまま」で「変わらないこと」を願う。

本当に大切なものを切り捨てても。

でも、その願いは叶わない。
何故なら、社会は変化してゆくから。

だから、恐れずに変化しよう。
一歩踏み出そう。
でも、その前に「ありがとう」を伝えよう。
自分にとって、大切な人へ。

貴方の行動が、他の人を「変える」きっかけになるかも知れないから。

2013年8月9日金曜日

組織として使われる「費用」を考える

厚生労働省は、ハローワークだけではなく「若者」とか「中高年」とかいろいろ増やして、余剰人員を配置する設備を作る。

これは理解できるのだけれど、そのお金は「国家予算」という名の税金だ。

公務員として年収400万ほどの給与をもらい、何人そこで働いているかは判らないけど、その成果率は3割ほど。

ハローワークで、一人就業成功させるのに、いくらかかっているんだろう。

考え方の違いだけれど、ハローワークを通して、一人就業させ「サラリーマン」として払う「税金」と、それを就職させるために、年収400万の公務員5人分ポジションを作った方と、どっちが国に「お得感」があるだろうか。

よく「税金で無駄な公務員を養っている」というけれど、実際、彼らも税金を払っている。しかも、安月給じゃないあから、結構な金額になるだろう。
彼らを働かせた方が、文句無く税金を吸い上げられるし金額も多い。

ただ、その活動自体がほとんど何も生んでいない。
でも、そこに「在る」ことで国の経済に貢献しているのならば、その仕組み自体が「壊れない」のも理解できる。

しかし、問題は、そこではない。
こんなほとんど意味の無い経済活動が「借金」でなされている事実を、どう捉えるか、だろう。

道路公団のように、組織をぶっ壊しても借金は減らない。

芯の課題を真剣に考える時期なのではないだろうか。








「ハローワーク」で働く人

ハローワークの仕事は必ず「紹介状」をもらう必要がある。

そのために先日ハローワークに行った時の担当者はすさまじかった。

まず、検索ができない。

5分くらいたって、私の欲しい案件の企業が「検索しても見つからない」と言われたので画面を確認すると、最初は「入力する場所」が違ってた。
次に3分くらいたって、「見つからない」という。そうしたら、タイプミスで会社名が間違っていた。

だから、指摘すると「ああ」だって。
ちなみに、ここまで私がやると30秒、すでにそこに座って15分はたっていた。

次に、その会社名で検索すると同じ求人や、求人時期が違うものがたくさん表示されている。

無料で登録するだから、そもそもデータ精査なんてされていない。
私が応募したい会社は、6ポジションのうち2つのポジションは同じだった。

担当者さん、その募集6枚分、問答無用に「印刷」して出してしまった。
無駄かどうかなんて、考えない。だって彼の金じゃあないし、税金だもんね。

でも、比較するといろんなことが判る。

どれも、2ヶ月たっても、応募者数0である。
そして、担当者名が違っている。
たぶん、辞めたんだろう。

募集元が2箇所ある。全く同じポジションだ。
片方は「正社員」で「転勤あり」、もう一方は「契約」で「転勤なし」だ。

そもそも、企業において「職務定義」が無い以上、こんなことが起こるのは驚かない。
大体、誰も「どのくらいの仕事量があるか」なんて把握してないから。
でも「人事部門」でも求人管理すらできていない状態なのは驚いた。

で、時間をかけてもらってくるのは「紹介状」というフォームの紙3枚
3社もらうのに30分以上かかった。自宅でやれば5分だ。

ID登録で表示される情報を制御できる仕組みがすでにWEB上にはあるのだから、仕組みを変えて改革するのは簡単だ。

でも、そこで働く人の職場は無くなる。

労働省の天下り先としては、あまり責任もなく、たいへん良い職場だと思う。
65歳までの雇用のためにも、こういう簡単な仕事を「国」が提供するのは必要なのだろう。

さて、この会社に応募すべきかどうか・・・・・

「ハローワーク」に突っ込まれる税金を考える

ハローワーク。この「国」の提供する施設は、ご存知の通り、ありとあらゆるところにある。

この組織における「成果率」を考えたことはあるだろうか。

数字が出ている。大体3割。
つまり、10人行っても3人しか就職できない。
30回応募したら、3回ほど反応が来るという程度だろう。

この「仕組み」は「求職者」と「企業」のマッチングになる。

そして、この「仕組み」は国が提供しているから、ものすごい「人件費」をかかっている。
そして、国はこの「仕組み」を活用してもらうため「無料」で登録するだけではなく、お金もばら撒く。

重点分野雇用創出事業、という名の補助金。
この国の事業、補助金を「企業(団体)」に渡して、雇用を作り出しているらしいのだがこの補助金、いつ払われるか、とても興味がある。

ハローワークは掲載「無料」だ。
そこに、独立行政法人が「求人」をだす。
重点分野雇用創出事業だ。で、応募する。書類審査で落とす。
応募者には「今回は応募が多かったので」ということで書類を戻す。

で、同じ求人をハローワークに「新規」で登録する。
繰り返して、「お仕事」した履歴を作る。

だいたい、国の予算は「1年」だ。

私の疑問は、1年繰り返して「いい人が見つかりませんでした。」という結果でも補助金は出るのだろうか。

まあ、企業の補助金不正受け取りなんて珍しい話じゃあないけれど、行政機関がこんなやり方をしているのを見て驚いた。

ちなみに同じ時期に応募した企業4社は、どの会社も見当たらなかった。



既存の「仕組み」を壊しても問題は解決しない

高速道路の発展は、その専門企業が発展することである。
建設会社、コンクリート会社。
政治では、俗に「道路族」なんて言われてる。

国が企業に金を払い、道路を作り、企業は潤い、国は成長した。
その結果、借金が増えた。

そうだよねえ。借金40兆円としても、その半分だって20兆円。
この規模の国家予算を「仲間」で使えるなら、その仕組みは壊したくない。

だから、国鉄も民営化には苦労した。
道路公団もそうだ。この苦労、半端じゃあない。
誰の時代に意思決定して、実行されたか。

小泉首相の時代だ。

民営化するために、道路公団を分割し、借金も分割する。
そして、その借金を管理する独立行政法人も作った。

それが、「日本高速道路保有・債務返済機構」だ。
そのために、法律も作った。

日本高速道路保有・債務返済機構法だ。
この他の法律も民営化のためにいくつか作られている。

NTTのときもそうだ。
仲間は既得権を守るためにいろんな手段を酷使する。
借金を、あっちに移して、こっちに移して、形を変える。

そのためにまた、政府の雇用が生まれる。予算も必要となる。

仕組みをぶっ壊しても、借金は減らない。
芯の問題は「みんなで使いまくって、返せない金」だ。

チャラにすればいいと思うけど、金額が大きくてチャラにできない。
これだけの借金があれば、銀行も貸せない。

だから、債権販売をする。

40兆円も借金がある会社のものなんて誰も買わない。

だから「政府」の保証を付ける。
その国の借金はすでに限界を超えて、国民一人800万だ。

返せない借金を抱えた企業を、借金だらけの国が保証する。
その債権を買って「投資」という名目で金融商品として形を変える。

ここまでくると「仕組み」は、驚きと共に感動すら生まれる。
そんな金融商品を「儲かる」と信じて買うのは自由だ。

自由万歳。



借金40兆円。これ、国家予算の半分の金額って・・・

かつて、長銀は「借金が大きすぎて潰せない」という話を聞いたことがある。
本当かどうかなんて興味は無いけれど、借金も多すぎるとチャラにできず「先送り」しか「考えたくない」気持ちは理解できる。

年金や高速道路も金額を考えると恐ろしくなる。

高速道路、民営化にしても借金が40兆円ほど。
これは、国の一般会計年度予算の約半分ほどだ。

ちなみに、東京都の一般会計予算は年間大体6兆円ほど。
東京都の一般予算6年分の借金がどれだけ大きいか想像できると思う。

どこかでチャラにしないと、利子が利子を生んでどんどん借金は増えてゆく。
でも、できない。
まあ、心配する必要はない。
少しずつ返していれば「いずれ誰かが」どうにかする。

この「借金」管理も財団法人だ。
それでも、高速道路はもっと借金して作られる。

恐ろしいことに、かつてこの借金で作った高速道路はすでに老朽化が進み、これから修理に莫大な金額がかかるという。

道路公団、小泉時代に民営化になったらしいが、体質的にはまったく変わらない。もちろん、日本社会で「変わること」は悪なのだから当然だ。

40兆円の借金を抱えた企業は潰せないけど、6分割ほどに会社を分化すれば借金額も小さくなる。そうすれば、破産させることはできるかも知れない。


「罪」と「許し」

旧約聖書は人の犯した「罪」について、たくさん記されている。
そして、新約聖書はイエスの伝える「神の愛と許し」がたくさん記されている。

神が人を「許した」という概念は、また人も人を「許す」ことを神が願っていると信じることができる。

それが、どれほど難しいかということもまた、記されている。

「何度まで許せますか」という質問にイエスは「何度でも許さなければならない」と答えている箇所がある。神が人に求めるのは、そういうことだ。

でも「許す」ことは、本当に難しい。

だから、自分の発言や行動を考えて起こすことが必要だ。
そのためには、行動の基準になる「軸」が必要だ。
「価値観」ともいえるだろう。

「マニュアルだから」
「仕事だから」
「あっちが悪いんだから」
「金がもらえるのだから」

そうやって行動する人の後姿を見て育つ子供達がどんな価値観を持つのか。そして、その価値観をもってどんな社会を作るのか。

少しだけ考えてみて欲しい。

今の大人が老人になった時、今の若者にどうやって扱われるか。
「弱い者」として。

一人ひとりが、弱者に対して「やっている行動」が、将来私達が受け取るものだ。

人は罪を犯す。それを「犯罪」として裁くこともできる。

でも、結果、社会は住みやすくなったのか。

犯罪者の行動は憎むものだけれど、その個人を裁いても何も解決しない。

犯罪が起きる原因は、一人ひとりに問題の「当事者意識」が欠落しているからであり、「法律が無い」からではない。

「罪」の意味

「罪」とは、クリスチャン的には「的外れ」という意味を持っている。

神が人間に求める行動から「的が外れているもの」という意味らしい。
カソリック的には「7つの大罪」の傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲が有名だ。

しかし、この具体的な「罪」は聖書に明記されている訳ではなく、4世紀の修道士が記されたものが原型になっている。

「犯罪」は一般的に「法律違反」であり、その「法律」は人間が作る。
それは国によって違うものであるが、クリスチャン的「罪」は違う。

神の教えが「法律」だ。そして、聖書には「罪を犯した人」を「許す」概念が存在する。

「馬鹿であることは罪ではないけど、その馬鹿な人が公人なら犯罪だ。」という意見は、理解できるが同意できない。

「犯罪」であろうとなかろうと、公人でも私人でも、「意見される」他者の痛みを考慮しないことは「罪」だ。

「思う」だけではなく、それを文字にし「主張」した場合はもっと大きな罪だ。
一見、正論に見えても「行動した個人」を責めるのは、やはり「罪」だと思う。
(批評したい気持ちは、よーくわかるけど。)

インターネットのような時代では、「意見する」すべての人が対象になるだろう。

話題の「あの人」の行為を罵倒すること。
クラスメートの陰口をたたくこと。
努力して何かをしている人を「売名行為だ」と決め付けること。

それだけではない。「ニュース」となった「個人」はもちろん、どんな人に対しても、他者を蔑む行為はどんなことも「罪」だ。

そして、事故があれば「反省する姿」を見せることが「許される量に比例する」と解釈することも「罪」だ。

「許すこと」とは責任者が「頭を下げる」ことではない。

「謝罪」と「許し」は当事者同士でしか出来ない。

事故が起こった原因を追究し、改善しないことに関心を向けない、一人ひとりもまた罪人だ。何故なら、その無関心の「人」が集まって社会を作っているから。

一人ひとりが社会の一員として行動に「責任」を意識する必要がある。
そうでなければ、社会に存在する価値観は、人が作った「法律」だけだ。

人が作った法律には矛盾ができる。
人の「行動」を規制できても、人の「欲望」の規制はできない。

「罪」と「犯罪」

ある記事を読んだ。

その中に「人を馬鹿呼ばわりするのは、嫌いだし、個人が馬鹿であることは罪ではない。でも、一国を代表する公人が馬鹿であることは、犯罪だ。」というような意味のコメントを読んで考えさせられた。

「罪」と「犯罪」の違いはなんだろう。

同じ頃「福島原発事故の責任が追及できない」というこ記事も読んだ。
結局、あの事故に関しては「誰も責任なし」という判例が確立されそうだ。
誰も「犯罪」は起こしていないということだ。

「罪」と「犯罪」の違いはなんだろう

一般的な意味ではなく、人が「法律」という規律を作る基準となる「価値観」を考えて欲しい。

今の日本に、この価値観が本当にあるのだろうか。

事故が起こったから「規制して欲しい」。
事故が起こってからでは遅いから「認可制にして欲しい」。

でも、それは「自分たちの既得権を守りたい」という思いしか見え隠れしない。

法律があろうが、なかろうが、人間としてはいけないことがある。

公人であろうが私人であろうが、インターネットという道具を手に入れた現在、すべての人は「発言」に対して責任がある。

そして「発言」だけではなく「行動」も責任がある。

詐欺、ごまかし、過度なクレーム、そして企業における一方的な契約変更。

行動する基準が「法律違反じゃないからやっても良い」というのであれば、これからはもっと「法律」も増えるし、「犯罪」も増えるだろう。

「ごめんなさい」という言葉

口癖のように謝る友人達がいる。

何も悪いことをしていないのに、そうすればすべて丸く収まるかのように。
だから、彼女達とはある一定のライン以上、関係が踏み込めない。
喧嘩にならない。

でも、何故そうしてしまうのだろうか。

私は、この友人達が好きだ。
彼女達は、彼女達なりに、少しずつだけどオープンになってきている。

だから、ある時正直に質問した。
「なんで、自分の意見を私に伝えることが「悪い」と思うのか」って。
彼女が「要らないことを言って「ごめん」」とメールしてきたからだ。

彼女は「おせっかいなことを言って怒らせてしまったと思ったから謝った。」そうだ。

だから返信した。

「お互いに意見を言わないと、友人関係を築くための時間をかける意味が無いじゃない(笑)。私には、言いたいこと言っていいよ。返信のタイミングが遅いときもあるけど、そんなことで怒るなんて思って欲しくないなあ。」と答えた。

本当にそう思っている。

もう一人の場合は「連絡することが「迷惑」だと思ったから」と言われた。
だから、「迷惑だと思ったら、付き合う時間は取らないでしょう(笑)。そんなことに謝る必要なんてないよ。」って答えた。

心からそう思っている。

付き合う人間は自分が選ぶ。
相手が機嫌を悪くして付き合いたくないなら、それでいい。
すべてのの人間に好かれることなんて無理だ。

「ごめんなさい」という言葉は簡単に使うものではない。
口癖のように使うと、謝罪という「思い」が薄っぺらに感じてしまう。
いつも使っていると口先だけに思ってしまう。

だから、本当に悪いときに使っても相手には真剣に思ってもらえない。

たぶん、相手の性格の問題だと思うけれど、こういう付き合いの人とは、心のそこからオープンになったという感覚をあまり持てない。
ドアの向こうから話されているようだ。

ただ、付き合いが長くなるほど、変わってゆく。
ドアが少しずつ開くように。

だから、勇気を持って伝える。自分の意見を。
だから、信じよう。本当の思いを「言葉」で語ることを。

2013年8月6日火曜日

小さな芽を摘み取る必要性

ナイフでクラスメートを脅す小学生。

事実ならば、これは「いじめ」でもなんでもなく「犯罪」だ。

子供に理由をきけば「ふざけていた」というだろう。
大人がそこで「子供がそう言っているのだから」と理解することがまず、間違っている。

法律があろうが、なかろうが、やってはいけないことがある。

それは、弱いものをいじめること。

これは、ふざけようが、仲間内だろうが、やってはいけない。

ナイフを振り回して「仲間内でふざけている」などということを大人は理解してはいけない。

何故か。
それはどんな他者にでも「やってはいけない」ことだから。

これが社会人になって、弱い社員をいじめて「教育のためだ」という言い訳に繋ながってゆく。

自分が強い立場にいるとき、それを利用して「弱いものをいうままにしようとする」行動が、問題なのだ。

それを、この時点で子供達に教える必要がある。
見ているものもまた「加害者」であるということを。

かつては、げんこつごつん、で終わった教育が、今は非常に手間がかかるものになった。
でも、その教育が不要になった訳ではない。

未来の学校、企業の「いじめ」という「犯罪」を防止するのは、ここから始まっている。

だから、教えよう。
「弱いものをいじめるのはやってはいけない」ということを。

芽が小さな時に摘み取るらなければ、育ってしまう。
成長すると、この思想の種が次の世代に撒かれる。

だから、繰り返し言い聞かせよう。未来のために。

したくなる気持ちはわかるけど

思わず同情した。

ある校長先生が、ナイフでクラスメートを脅した子供とそれを見ていて何もしなかった子供を校長室で頭を一発づつたたいたらしい。
それが、全国記事になり、懲戒処分、自ら退職した。

かつての学校なら、校長先生の行為に何も疑問など持たなかっただろう。
でも、だからこそ「暴力の肯定」がされたのだから、彼の「暴力」という行為は間違っている。

ただ、間違っているのは、「行為」だけだ。

彼は「この子供達の行動はまずい」と真剣に感じたから、大人として「やってはいけないこと」を教えようとした。

それ自体は、必要な教育だ。

「ナイフで脅した」子供とそれを「見ていた」子供は、この事件で「自分達」の罪を「大人」に押し付けて「被害者意識」だけが記憶に残るのなら、大人は本当に必要なことを教え忘れたことになる。

犯罪は、犯罪だ。
今の時代は、大人が子供でも「犯罪者」を知ったのなら「通報」する以外、手段はないだろう。

だから、脅迫が「事実」なら、警察に電話をして子供を逮捕してもらえば良かったのだ。
自分だけで対処できる時代じゃない。
「こんなことで警察の迷惑を」と思って対処した結果、今の親がある。

校長先生が感じた危機意識は重要だ。
でも、彼の間違った対処ばかりを取り上げることに、社会の病巣を見る。

人は間違うことがある。
当たり前だ。

ただ「何故、その行動になったのか」を考えてみよう。
校長先生は、プロなんだから、もう少し、信頼てもいいんじゃないだろうか。

事件の発生理由は「先生」ではなかったのだから。

若者の行動は本当に「問題」なのか

世の中には、モンスターペアレンツが「こんなこと、言った、あんなことした」とトンデモ事件に事欠かないようだ。

彼らを非難する意見は多いけど、そこに立ち会う教育者達は、何故その人たちに「それは間違ってます」と言わないんだろうか。

苦情を「言われる側」はその道のプロだ。
だから、そんな場面は何度も経験している。

「そんなことしたら、訴訟問題になる」「いやあ、彼らは人の意見に耳なんて貸さないし」「人の考え方にはいろいろあるから」という反論はあるだろう。

でも「今」の状態を「変える」なら教育の「プロ」として意見をしなければ、誰がそれを正すのか。

「無難に終わらせたい」と思った結果、今がある。
過去取った行動は間違っていたのだ。この事実は、認識しているだろうか。

いじめもそうだ。

先日のある教育番組で「家庭で「いじめてはいけない」と教えていますか」という質問に「教えている」と答えた家庭が30%程度しかなかったことだ。

その番組に参加していたのは、いじめについて関心の高い「母親」だけだった。

だから、父親、祖父母、すべてにこの質問を投げかけたら、どれほど少ない割合になるのだろう。

教えられなかったことは学べない。
自身に信念がなくては教え、伝えられない。

私たちが教えられた信念は「良い会社に入るためには、良い学校に行くこと」だった。

政治の既得権死守や企業内でのいじめやパワーハラスメントを見て見ぬふりをした大人の背中を見て育った若者(独身でも子持ちでも)の行動が「変」なのは、当然のことだ。

「死ね」という言葉がもたらす影響

何故、こんな言葉を軽く使えるようになってしまったのか。

ひとつは、個人を尊重しないから。
もうひとつは、言葉を吟味して関係を作らないから。

だから、言葉が、軽く扱われる。
誰も、真剣にその意味を考えて利用しないから。

当たり障りのない関係しか構築する必要がなければ、言葉の意味を吟味して使う必要もない。

「死ぬ」という言葉が当たり前に使えれば、それを「売る」こともさほど問題だとは思わなくなる。

ある舞台が中止になったらしい。
まだ生きている人の自伝を原作として作った脚本だったらしいが、最後に自伝を書いた人が死ぬストーリーになっていたそうだ。

考えてみてほしい。
自分の人生を元に、舞台に、映画が作られた時、自分自身がその中で死んでしまうということを。

ましてや、いろいろな難題をかかえて、必死に生きてきている人だったらどう感じるだろう。
自分は生きているのに、舞台で、映画では死んでしまう。

法律やお金の問題ではない。
これで、有名になったんだからいい、という問題でもない。
これもまた「死ね」という言葉が当たり前になった社会が罹患した病気だ。

「殺す」という言葉を使う人と、それを実際にやる人間に差はない。

聖書は「心に思っただけですでに姦淫がなされている」と教える。

心に思っただけで、実際に行動したことと同じと考えるのは、姦淫だけではない。
「殺す」という言葉が日常的に使えるなら、人はそういう思いを増長させる。

だから、決して使ってはいけないのだ。

人に向かって「死ね」という言葉を使う社会

デジタルのテキスト文字の方が、会っておしゃべりするより好まれる今の時代、「死ね」と誰かに向かって発することを「問題視しない」大人が多い。

「みんなが使っているから仕方ないでしょう」「ふざけているんだろう」とか、大人は子供に理解あるフリをすることで、どんな「人間」を育ていてるのか理解しているだろうか。

命に向かって「死ね」と言うことは人として、やってはいけないことだ。
誰が決めたとかではない。

命は与えられたものだ。
それを奪うのは与えた神の役割だから、自分だろうが、他人だろうが、それが消えることを願うこと、ましてやそれを言葉として使うことなど、絶対やってはいけない。

だから「死ね」という言葉は、どんな場合でも使ってはいけない。

友人が娘と喧嘩をした時、「死んだらいい」と書かれたメールを貰ったそうだ。

その時、彼女は「めちゃ、ショックだった」と言った。

娘さんは、その言葉の恐ろしい意味を理解していない。
みんなが使っているから、大人が誰も「それは、人としてやってはいけないことだ」と教えないから。

だから、友人に「娘さんとちゃんと話した方がいい。
その言葉が与えるダメージを彼女は知る必要がある。」と意見した。

結果、話し合って仲直りしたらしいのだけど、恐ろしいのは他者の「死」を願う言葉を使うことが「普通」になっている現実だ。

大人が誰も、使う本人に対して「やってはいけないこと」と言わない。
使うことに対して、叱らない。命がどれほど貴重なものかを知っていれば、決して使える言葉ではないのに。

「殺してはいけない」ことを教えられていない世代

16歳の少女が16歳の同級生を殺した。
罵倒されたからだそうだ。

LINEという情報ツールで知り合った共犯者がいるらしい。
LINEに記録が残っているため、いろいろニュースになるけれど、本当の「ニュース」は「殺人」ということがいかに簡単に行われてしまった「事実」ではないのか。

共犯者がいるということは、そこに誰も止める人がいないという事実。
命を奪うことが「間違った行為」であることを理解できない人間が育っている事実。

「殺してやる」「死ね」という言葉の意味を考えないで発する事実。
それに対して大人が「言霊」の恐ろしさを「感じない」事実。

だから、子供にその言葉を「使う」ことが、どれほど恐ろしいことなのかを説明できない、「使ってはいけない」と教えない事実。

これらの現実は「お手軽に知り合えるツール」より遥かに恐ろしい。

「命」は貴重なものだ。どんな命もこの世に無駄なものはひとつもない。
神が「人」に必要とした命だから。

だから、殺人をしてはいけない。
命を奪う権利は、与えた神しかいない。

個人を尊重しないことは、それを持っている命を否定することだ。
だから簡単に「死ねば」とか「殺してやる」と言う言葉が出る。

これらを「使ってはいけない」ことを教えなかった大人達はまた、それらの言葉の持つ意味を深く考えたことが無いのだろう。

死体を見るまで、自分のやった行為に向き合わない人間が育ってしまった社会は、これから一体どこに向かうんだろう。

責任を押し付ける文化

日本は、声の大きな人が勝つ文化だ。
とんがっている人は叩きのめされるけれど。

すべての問題は、責任の切り分けをしないからだ。
そして、もうひとつ。誰もが責任を取ることを嫌がるようになった。

何故嫌がるのか。
割りに合わないからだ。

でも、責任を「荷物」と考えてみよう。

社会の一員として「権利」を主張するために「責任」という荷物を背負っている。

この荷物を誰かに預ける。
それをまた、誰かが誰かに預ける。
その時は、2人分になっている。
これは目に見えないけれど、その責務は増えている。

老人ホームの介護人、学校の先生、病院の医者、まだまだたくさんいる。

サービスを受ける側にも「利用する責務」があるのに、それを提供側に押し付ける。

法律は「消費者は弱いもの」という考えから彼らを守ることばかり考えて作られる。

でも、考えて欲しい。

それらを選んだのは自分だ。
それに満足しなければ、変えればいい。
でなければ、事実を調べていっしょに考えて、やって行けばいい。

「お金を払っているから」という理由だけで、自分が「それを選んだ」責任が無くなるわけではない。

これしか選択肢がない、というのなら、その事実を認めてより良いものにするために、みんなで努力すればいい。

そんな場合、まずそこにプロがいることに感謝することが先だろう。

採用決断の責任は誰? 

最近、今の派遣の仕組みは、結局企業が「人を雇う責任を放棄した」結果できた仕組みだ、というようなことを書いた。

そんな「仕組み」には「責任を持たない」管理職の存在、そして責任をあいまいにする構造についても、書いていたがさすがに大学生の就職で何が起こっているのかは知らなかった。

5回、6回、の面接が普通だそうだ。

これほど「決断」できない管理者が増えているのは、企業における「雇用」の仕組みがとっくに破綻していることの証明になると思った。

あるインタビューで「面接が10回以上あったこともあった」と語る20代は「そうやって落とされたら人格否定されたように感じる」と感想を述べていたが、それは人間として当然だろう。

一回会って「ご縁が無かった」なら、まだ立ち直れる。
所詮、面接官と相性が合わなかったのだから。

でも、5回も6回も呼びつけられて、その上で「残念でした」と言われれば、そりゃあ、大人に絶望して、引きこもりたくもなるだろう。

相手の時間を使わせることに何も感じない企業。
決められない管理者の行動が、どれだけ未来の人間を痛めつける行為なのか、自覚しない無神経さ。

面接官の時間単価は安くないけれど、「正社員は首に出来ない」という「仕組み」のおかげで時間をかけて選ぶ。

「みんな」がいいと言ったのだから、正社員にしても「俺」の責任ではない。

そういう職場で3年働いた人が「人事のプロ」として転職する。
そうやって雇われた若い人は3年で辞める。

自分たちの行動を「考えない」結果がもたらした「仕組み」を肯定する以上、これからも変わらないだろう。