日本は震災以後「絆」とか「コミュニティ」という言葉が盛んに使われている。
ところが、こういうものを今まで大切にして来なかった人たちが使うので、誰が使っても薄っぺらいものにしか聞こえない。
使う人が「私って素敵っ」と思うための言葉にしか思えない。
今朝、CNNの「白血病の少年が「バットキッド」に」という記事を見て「ああ、これが大きく違うんだなあ」と思った。
このメイク・ア・ウイッシュという団体のことは以前から知っていた。
ただ、この記事は本当の意味での「コミュニティ」を現している。
1万2000人演じる「舞台」が「コミュニティ」として一体になった出来事は、たとえ影に醜い行為があったとしても、みんなが少年のために起こした行動は素晴らしいものだ。
人の良き「もの」は、人を動かす。
こういう一体感が「コミュニティ」という意識を育てるような気がする。
「5歳の病気と闘う姿が他者に勇気を与える」という記者のコメントは、与えた彼らと5歳の少年が対等であることを現している。
こんな風に「与える者、与えられる者」を作らない客観的な記事が書けるのは、アメリカ文化の根底にある平等意識のためだと思う。
東北の被害地域では、街づくりが難航しているらしい。
でも、コミュニティは、政府が作るのではない。
お金があるからできるものでもない。
そこに住む人達が「必要として」作られるものだ。
住む人一人一人が責任を持って作るものだ。
「誰か」が作ってくれるものではない。
「誰か」のために作るものでもない。
子供が、大人が、そして老人が、みんながお互いを支えあって作られるもの。
それがコミュニティだ。
それは、日本でもアメリカでも変わらない。
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