ロイターの「コカイン使用のトロント市長が再び謝罪」という記事を読んで、昨日ラジオで聞いた「あの市長だ」と思い出した。
この市長の謝罪会見を聞いて「そうじゃあないでしょ」と思っていたからだ。
記事からは、この市長についての「事実」だけが書かれている。
これはニュース記事として素晴らしい。
でも、肉声の謝罪会見を聞いた印象とはかなり違う。
彼は最後に言った。
「私は間違いを起こしたけど、この街をずいぶん改善してきた。
赤字も解消してきた。
そんな自分を不要というのなら仕方ない。
後は勝手にやってくれ。」
そんな印象を与えるスピーチだった。
それはトロントの街に対してかなり貢献した自分を、(バレてしまった)一度の過ちすら許してくれない議会へ不満あふれるものだった。
彼は理解していない。
彼がトロントの街にどんなに貢献していても、社会のルールを守らない人が、社会の秩序を保つ仕事はできない。
どれだけ能力があってもだ。
リーダーとして公人になった以上、求められるのは結果だけではない。
彼の市政への行動を、市民が、国民が信用できるような人格が何より必要なのだ。
それは、リーダーが「やる」と決めて「選択したこと」が街の未来のために正しいことである、利害関係はない、と市民は確信する必要があるからだ。
これでは、彼が思う過去の「成功」すら裏があると思われても仕方ないだろう。
このスキャンダル、地元紙がすっぱ抜いたらしい。
日本の新聞がすっぱ抜くのは、クール宅急便がいつも「クールじゃあない」ことだ。
この差は、新聞という「機能」についての「公民意識」の違いだろう。
それはまた、国民が考える「大切なことは何か」という違いでもある。
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