虐待という言葉はあまり好きではない。
何故なら、ここには「する人」より「された人」への「かわいそう」という感情を掻き立てる言葉に思えるから。
いじめという言葉も同じことが言える。
どんな言葉で表現しても、重要なことはひとつしかない。
「事実は変わらない」ということ。
虐待「された事実」も、「した事実」も変わらない。
ここから「どうするか」は、当事者の問題だ。
特に「された側」に立つ同情たっぷりの意見が多いが、当事者が再び生きるためには何の役にも立たない。
たとえば、道に暴力を受けた人を見下ろしながら救急車も呼ばず、かかわりたくないために通りすがりに「かわいそうねえ」と言う傍観者。
批評しかしない人は、ただの傍観者だ。
当事者が事実を受け止め、自分の足で立ち上がるためには、彼らが立ち上がろう、乗り越えようとしなければ、何も始まらない。
他人から受ける暴力はどれも外傷みたいなもの。
食べて寝て日増しに傷は癒えてくる。
でも、本人が「被害者である」ことを理由に起き上がろうとしないのは、本人の問題だ。
すぐに起き上がれないなら、しばらく寝ていればいい。
でも、いずれ起き上がる必要がある。
そして、それは本人しかできない。
「生きる」というのは、不合理なことも多い。
でも、その事実に向き合うのは当事者本人だけ。
倒れた自分は自分で立つしかないけれど、きっと支えてくれる人がいる。
起き上がる前に、ちょっと回りを見回してみよう。
差し伸べている手を信じて、つかんでみよう。
一歩踏み出さないと何も始まらない。
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