美術大学で習ったことは、「何故、表現するのか」を自分に問い続けることだった。
そのために、歴史(他者のやったこと)を勉強し、クラスメートから、作品の評価を受ける。
何故、そのような「勉強」を大学で必要とするのか。
他者と交流しなければ、自分を客観的に見る目は育たない。
結局、自分自身の価値も他者と比較しなければ、把握できない。
そして自分に問う。
「何故、表現するのか」。
その答えは、単純だ。
そうしたいから。
「思い」や「感動」があって、やらないではいられないから。
とどのつまり、「感動」なしには何も生まれない。
歴史を学ぶとそれが判る。
人間の「感動」の記録の上に私達の「今」がある。
この感動は、肯定的なものだけではなく、否定的なものもある。
文章を書き、自分の意見を発表することは簡単になった。
言論の自由は人の権利だ。
しかし、その責務を知っているのだろうか。
憎しみ、怒り、不満、恨み。コピー文化で「誰かの(否定的な)感動」が増殖する。それが、思想となって、他者の行動に影響する種となる。
「否定的な感動」を伝える人はその加担者であることを自覚しているだろうか。
多様性は否定され、画一意見が蔓延する。
大戦前の言論統制時代も、同じような状況だった。
戦争が起こる、起こらない、という観点ではなく、世論が多様性を認めない、コピーした思想が蔓延する社会は、人間社会として成熟できない。
誰かが自分のために決めてくれることを待ちながら、文句を言い続けることは、「変わらない社会を支える行為」であることを認知する必要がある。
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