最近、命は「作るもの」らしい。
作るものだから、失敗作を捨てるのも「人間の都合」だ。
作るものだから、思ったように出来ないと「こんなはずじゃあなかった」となる。
でも考えてみよう。
命は本当に人間が「作る」ものなのだろうか。
もし、そうであれば、人が生まれる意味は「作られたから」となる。
じゃあ、その作られた人間の生きる意味は?
フランケンシュタインの映画でキャッチコピーが「何故、作った」だった。
もし、今の子供が自我に目覚めて、生きる意味を親世代に問うた時、どう答えるのか。
「欲しかったから」ではルイ・ビトンのバックと同じレベルだ。
その答えから、命の貴重さが学べるとは思えない。
では、命が「与えられたもの」と考えた時にはどうだろう。
この考えでは、神が存在する。
この「神」という概念は、自分より大きなパワーである「何か」という意味だ。
だから、与えられた命は、神の意思がある。
人が理解できる埒外において神は私達に命を活用して「やってほしいこと」を託してこの世に送った。
イエスはそれをシンプルに「愛し合うことだ」と伝えた。
それも、イエスのように。そして「許しあうこと」も。
クリスチャンはそれを信じる。
人間に「作られた命」は、人間が作った仕組みで評価され、愛される。
そこに生きる意味は見出せない。
でも、神の仕組みで「与えられた命」は、神の仕組みで評価される。
条件も何もない。
神が自分に命を与えたのは、明快な理由がある。
一人ひとりは神に「必要とされたから」この世にある。
まだ、神の「目的」は判らないかもしれないけど。
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