「する側」がいれば「される側」がある。
どんな暴力にも「加害者」と「被害者」がいる。
では、「傍観者」という第三者はどちらだろうか。
一億総批評家時代、この「傍観者」は大抵当事者として「どちらか」だったことが多いけれど、圧倒的に「被害者」だったことが多いらしい。
でも、数的に考えればこれはおかしなことだ。
つまり、この現象は同情を受けやすい「被害者」という認識はしやすいけど、「加害者」という認識はできないといえるだろう。
たとえば、いじめや暴力を見ていても何もしない「傍観者」は「加害者」とは思わないだろう。
しかし、実際「傍観者」は「加害者」だ。
いっしょになって、誰かをいじめるのはもちろん加害者だけれども、それに関わらない選択をした個人は立派な「加害者」だ。
でもそういう「傍観者」には当事者意識がない。
距離を置いたところから「被害者:かわいそうな人」に「同情する優しい私」という感覚を持って意見する。
同情は、高みからしか提供できない。
自分が「加害者である」という意識を持てば「加害者にならないためにどうすべきか」を考え始めることができる。
これにはひとつしかない。
関わること。面倒でも、当事者になること。
「間違っている」と声を出すこと。
「加害者にならない」選択をすること。
(認識しない)加害者がいなくならない限り、被害者は生まれ続ける。
何とかできるのは「誰か」や「国」ではなくて「加害者になることを止める自分」しかいない。
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