2013年7月30日火曜日

何故「彼」を愛している、と確信できるのか

「愛がなきゃ結婚できません」という言葉は、一見、他者の個性を尊重しているような意見に見える。
しかし、本人は何を持って「彼を愛している」と確信できるのだろうか。

「好き」と「愛」はまったく違う概念だ。

「愛」は、尊敬がなければ成り立たない。
クリスチャン的には、尊敬が無くても「愛しなさい」と聖書では教えている。

「愛しなさい、許しなさい」これが、イエスの教えだ。

だから、「好き」とはまったく異なる概念だ。

でも、何故人は「愛する」必要があるのか。

ひとつひとつの命が、出会いが貴重だから。

子供も老人も、神様がこの世に必要として送った大切な人たち。
だから、愛し合う必要がある。

そして、その中でも「人生を共にしたい」という相手に会えば、その意思決定は、相手への「尊敬」なしには生まれないだろう。

尊敬は、尊重にも繋がる。個性を認めるということだ。
相手の「条件」を認めるというのではなく。

人間関係を続けてゆこうとすると、他者との時間を過ごして相手を知ってゆかないと関係は深まらない。
相手に向き合い、相手を知る。そして認める。
そうでもないと、人生を共に送る覚悟なんてできない。

少なくても、私はそう思っている。
だから「結婚しない人たち」が「決断」が出来ない理由が理解できる。

たぶん、出会う相手はたくさんいるだろう。
でも、決断に繋がる「何か」が無い。

当然だ。
だって、結婚は「リスク回避」なんだから。

人間関係が形骸化すると、相手と向き合う必要が無くなる。

いっしょに時間を過ごすこともない形だけの「関係」。

形骸化した文化で生きる人が「結婚」を求めるのは「安定」だ。

安定は「自分のため」であり、相手のためではない。
自分の「安心感」という感情は、他者を「愛する」感情と同義語ではない。

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