2013年8月11日日曜日

自由に潜む「悪」

聖書は「悪魔」の存在を肯定している。

個人的には「悪魔」という「生き物」みたいなものではなく「悪」という概念が「人間の欲望」と結びついた時に起こされる「何か」と思っている。

「自由」という言葉は「責任」という言葉と対であることこを知っている人は少ないのかも知れない。

これは「自分で選択する」結果の「責任」は「自分にある」という意味だ。

「自由」の恐ろしさは「選んだ結果は自分の責任」ということもあるだろう。

ここには2つの選択肢がある。
誰かに「選んでもらう」か、自分の判断基準に基づいて「選ぶ」かだ。

どちらの場合でも、決断するのは自分の責任だ。
だから、結果が不満でも自分のせいだ。

では、どうやって決断するのか。
近年、ここでの判断基準は損得であることが多いが、欲望が絡むと、ろくな結果にはならない。

ただ「自由」ということは、ここに損得勘定で決断することも出来るということだ。

仕事を選ぶ、学校を選ぶ、伴侶を選ぶ、恋人を選ぶ、友人を選ぶ。
人生には、選んで決断する機会がいくつもある。

その時、何を基準に選ぶのか。

給与やメリットだけで選択した結果、不満な日々を送るのは社会のせいではない。
そこを抜けるのもまた決断が必要だが、それを選ぶのは自身だ。

「不安」のために行動できず、現状維持するのも「自由」だからできること。

「悪」は常に傍にある。
悪魔の好物は人の不幸なのだから。

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