2013年8月11日日曜日

裁かれるのを「忘れて」生きること

新約聖書のヨハネの黙示録は、来るべき神の「裁き」について書かれていると言われている。

今日の礼拝では、この部分の説教があった。

その中で「神の裁きはあまりに恐ろしく、それを見ないようにして生きた方がどんなに楽なことか。でも、裁きの存在を意識しないで生きるから、人は罪ある行動を意識しない。」というようなことを話された時、はた、と思った。

かつて、日本人は「そんなことしたら、神様の罰が当たる」と言って、子供を躾けていた。

漠然とはしているが、そういう信仰が反社会的行動をすることのストッパーになっていたはずだ。
つまり、「神がどこかで見ている」という意識が人の欲望をコントロールし、行動を制御していた。なんらかの形で。

だから、信仰が無くなった時、欲望はコントロール不可能になる。

その結果、法律がたくさんできるけど、法律は人間の欲望をコントロールできない。
そして、人の中にある「悪」は欲望と共に好きなだけ行動することになる。

だから、自然信仰でも、組織的な信仰でも、結果的に「自分の欲望や怒りをコントロールする必要性」を教えているような気がする。

これは生きてゆくために、必要なことだ。

でも、それは簡単ではない。

自分の中にある、欲望や怒りの「存在」や「量」を自覚しない限り、コントロールなど無理だ。

また、自分の行動を客観視できなければ、抑制は無理だ。

欲望のままに生きるのは「人」の自由だ。
神は人に選択できる「意思」を与えているのだから。

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