2013年8月6日火曜日

「死ね」という言葉がもたらす影響

何故、こんな言葉を軽く使えるようになってしまったのか。

ひとつは、個人を尊重しないから。
もうひとつは、言葉を吟味して関係を作らないから。

だから、言葉が、軽く扱われる。
誰も、真剣にその意味を考えて利用しないから。

当たり障りのない関係しか構築する必要がなければ、言葉の意味を吟味して使う必要もない。

「死ぬ」という言葉が当たり前に使えれば、それを「売る」こともさほど問題だとは思わなくなる。

ある舞台が中止になったらしい。
まだ生きている人の自伝を原作として作った脚本だったらしいが、最後に自伝を書いた人が死ぬストーリーになっていたそうだ。

考えてみてほしい。
自分の人生を元に、舞台に、映画が作られた時、自分自身がその中で死んでしまうということを。

ましてや、いろいろな難題をかかえて、必死に生きてきている人だったらどう感じるだろう。
自分は生きているのに、舞台で、映画では死んでしまう。

法律やお金の問題ではない。
これで、有名になったんだからいい、という問題でもない。
これもまた「死ね」という言葉が当たり前になった社会が罹患した病気だ。

「殺す」という言葉を使う人と、それを実際にやる人間に差はない。

聖書は「心に思っただけですでに姦淫がなされている」と教える。

心に思っただけで、実際に行動したことと同じと考えるのは、姦淫だけではない。
「殺す」という言葉が日常的に使えるなら、人はそういう思いを増長させる。

だから、決して使ってはいけないのだ。

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