旧約聖書は人の犯した「罪」について、たくさん記されている。
そして、新約聖書はイエスの伝える「神の愛と許し」がたくさん記されている。
神が人を「許した」という概念は、また人も人を「許す」ことを神が願っていると信じることができる。
それが、どれほど難しいかということもまた、記されている。
「何度まで許せますか」という質問にイエスは「何度でも許さなければならない」と答えている箇所がある。神が人に求めるのは、そういうことだ。
でも「許す」ことは、本当に難しい。
だから、自分の発言や行動を考えて起こすことが必要だ。
そのためには、行動の基準になる「軸」が必要だ。
「価値観」ともいえるだろう。
「マニュアルだから」
「仕事だから」
「あっちが悪いんだから」
「金がもらえるのだから」
そうやって行動する人の後姿を見て育つ子供達がどんな価値観を持つのか。そして、その価値観をもってどんな社会を作るのか。
少しだけ考えてみて欲しい。
今の大人が老人になった時、今の若者にどうやって扱われるか。
「弱い者」として。
一人ひとりが、弱者に対して「やっている行動」が、将来私達が受け取るものだ。
人は罪を犯す。それを「犯罪」として裁くこともできる。
でも、結果、社会は住みやすくなったのか。
犯罪者の行動は憎むものだけれど、その個人を裁いても何も解決しない。
犯罪が起きる原因は、一人ひとりに問題の「当事者意識」が欠落しているからであり、「法律が無い」からではない。
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