2013年8月9日金曜日

「罪」の意味

「罪」とは、クリスチャン的には「的外れ」という意味を持っている。

神が人間に求める行動から「的が外れているもの」という意味らしい。
カソリック的には「7つの大罪」の傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲が有名だ。

しかし、この具体的な「罪」は聖書に明記されている訳ではなく、4世紀の修道士が記されたものが原型になっている。

「犯罪」は一般的に「法律違反」であり、その「法律」は人間が作る。
それは国によって違うものであるが、クリスチャン的「罪」は違う。

神の教えが「法律」だ。そして、聖書には「罪を犯した人」を「許す」概念が存在する。

「馬鹿であることは罪ではないけど、その馬鹿な人が公人なら犯罪だ。」という意見は、理解できるが同意できない。

「犯罪」であろうとなかろうと、公人でも私人でも、「意見される」他者の痛みを考慮しないことは「罪」だ。

「思う」だけではなく、それを文字にし「主張」した場合はもっと大きな罪だ。
一見、正論に見えても「行動した個人」を責めるのは、やはり「罪」だと思う。
(批評したい気持ちは、よーくわかるけど。)

インターネットのような時代では、「意見する」すべての人が対象になるだろう。

話題の「あの人」の行為を罵倒すること。
クラスメートの陰口をたたくこと。
努力して何かをしている人を「売名行為だ」と決め付けること。

それだけではない。「ニュース」となった「個人」はもちろん、どんな人に対しても、他者を蔑む行為はどんなことも「罪」だ。

そして、事故があれば「反省する姿」を見せることが「許される量に比例する」と解釈することも「罪」だ。

「許すこと」とは責任者が「頭を下げる」ことではない。

「謝罪」と「許し」は当事者同士でしか出来ない。

事故が起こった原因を追究し、改善しないことに関心を向けない、一人ひとりもまた罪人だ。何故なら、その無関心の「人」が集まって社会を作っているから。

一人ひとりが社会の一員として行動に「責任」を意識する必要がある。
そうでなければ、社会に存在する価値観は、人が作った「法律」だけだ。

人が作った法律には矛盾ができる。
人の「行動」を規制できても、人の「欲望」の規制はできない。

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